2021年12月8日水曜日

”感謝の心で”

 聖ヨセフ一年中ありがとうございました。



 皆さん今年、聖ヨセフの年がそろそろ最後の時に近いて来ました。ですから、ヨセフ様に、感謝の心で修道会の一人のシスターがヨセフ様について黙想したことは分かち合いたいと思います。

 聖ヨセフ様は最も尊敬し心から憧れる聖人です。神様によって御子イエス様とその母マリア様を守る方にとして苦悩の中にありながら夢で神様のご意志を知り、それを直ちに受け入れ、誠実に従う方。その謙遜さ、静けさ、信仰の深さ愛に憧れるのです。


 今年に聖ヨセフの年に出された教皇フランシスコの使徒的書簡「父の心で」の中にーイエスは神の慈しみとヨセフの中に見ました(p12)ーということばを読み、私の感動は最高点に達しました。何と偉大!! 

神の御子イエス様が養父ヨセフ様から神のいつくしみを学んでいたとは。。。

 イエス・マリア・ヨセフの聖家族は美しく、純粋に神様の現在そのものだったのです。

イエス様はその父と母の中で知恵も背丈も成長した(ルカ2,52)何と深いなのでしょう。。。

聖ヨセフに恵みの中の恵みを祈るのみです。それはわたしたちの回心です。聖ヨセフに祈りをささげましょう。

 あがない主の保護者、

おとめマリアの夫よ。

神はあなたに御子をゆだね、

マリアはあなたを信頼し

キリストはあなたによって養われ、大人になりました。

聖ヨセフよ、

父親としての姿をわたしたちにも示し、

日々の歩みを導いてください。

恵みといつくしみと勇気が与えられ、

すべての悪から守られるようお祈りください。アーメン

2021年11月30日火曜日

聖アンドレ使徒

 



 聖アンドレは聖書には余り多く書かれていない、だから皆に知られていないのかもしれない。

 兄のペテロに【私達は油注がれた者を見つけた】と告げ、洗礼者ヨハネが〖見るがよい、神の子羊だ〗と言うと後を着いて行き、主キリストに【どこにお泊りですか】と尋ね、その日の午後は神の子羊・キリストと一緒に過ごした、洗礼者ヨハネの弟子だったと言われている人。それが聖アンドレ。

 彼は聖ペテロの弟で兄と同じ漁師、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに住んでいた。兄のペテロがもう良い年齢なので弟のアンドレもそれなりの年齢で、結婚していたと思う。ある日、兄のペテロとガリラヤ湖で漁をしていた時、主キリストに【私について来なさい】と召し出され、すぐに「はい」と答える心の準備が出来ていたのだろう。網と舟を置いて真っ直ぐに主の言葉に従い、その後に続いた聖人。聖書には多く書かれていないが、僅かな記述をもとに祈りの内に想像したり、思い起こしてアンドレという人物像を自分なりに考えることはとても好きなこと。

 まだ私が有期誓願期の頃、まるで映画を見ているように神・人であるイエズス様を感じることができたので夢中で読んでいたのはバルトルタ。その中でアンドレは、主に頼まれて静かな沈黙の内に、罪の女を経済的に、精神的に助けに行った。おしゃべりな兄や、噂好きの使徒達に何か一言言われれば真っ赤な顔をして下を向き、多くを語らず、黙って何も言えないアンドレ。物静かで一見はっきりしないようで、もちろん自分の意見を自分から言わない、しかし頼まれたことは適切に果たした。だから主は深く信頼し、秘密にしたい事はいつもアンドレに頼んだ。言いふらすことなく、何よりも優しい慈しみの心を持っているアンドレを、このようなデリケートな霊魂の救いのために主は選んだのだろう。最後の最後11月30日がお祝日だなんて、なんと謙遜だろうと私は思う。

 晩年、聖アンドレは遠くギリシャの方まで宣教し、そこで主とは違う型の十字架に掛けられ殉教した、そしてこの型の十字架は本人が望んだと言い伝えられている。主と同じではあまりにも自分に相応しくないと思うアンドレの謙遜の表れではないだろうか?(いざとなれば自己主張できるではないか、アンドレ!!!)想像の域を出ないが案外その通りだろう。この一見物静かで、しかし主への愛がその心に熱く燃えていたであろう、謙遜で頼もしい聖アンドレをもっと日本の教会でも知ってほししいと思うのは私だけだろうか?


2021年11月27日土曜日

待降節

 コロナ禍にもらず、1週間前位まではウエッブサイト上に山のハロウィンの宣がでていました。11月もすところ5日足らず。今度はクリスマスです。今では多くのイスラムにおいてもクリスマスをお祝いします。もちろん日本でもクリスマスツリにクリスマスケキ、そして、街にはクリスマス商。世界中の人が祝う宗行事、と言っても過言ではありません。


 キリストでは、クリスマスを迎える準備として、1130日に最も近い日曜日から4週間の「待降節」、ラテン語「Adventus」が始まります。「Adventus」の意味は、「到救い主キリストの到、キリストの到を準備する期間です。教会も、新年がこの待降節第一の日曜日から始まります。約聖書の時代から待ち望んでいた救い主を迎える喜び、これが待降節の意味することで、教会の飾り物もクリスマスの色喜びを表す赤を基調として使われます。それと、キリストを現す光ソクです。それを現すいちばんのものが、アドベントリス。16世紀にドイツで始まり、1930年にはアメリカ大陸へとえられました。現在では、カトリック、プロテスタントを問わずほとんどのキリスト教会で見ることができます。その形は丸い形をしています。これは、途切れることのない神の無限の愛を表します。材料は、「イエスキリストがもたらす救い、永遠の命への希望を示す」常樹(絶えずで枯れない)を使います。リスには、「キリストの降誕を通して世界にもたらされたキリストの光」の象として、4週間の間一本ずつ灯す4本のキャンドルが置かれます。この4本のキャンドルは、多くのと地域の教会統として、待降節第一週のキャンドルは、「キリストによってもたらされた希望のみ」を思い起こすのです。第2週は、「キリストがもたらされた平和」。 第3週は、「キリストとともにいることのできるよろこび」。 第4週は、「神そのものであるキリストの愛」を思い起こすのです。この期間は、「よろこび」「ひかり」であると同時に、キリストを迎えるのにふさわしく生活を改める期間でもあるので、典に使う色は「ムラサキ」悔い改めの色も使われます。








2021年10月20日水曜日

10月は「宣教の月」


 10月は「宣教の月」、そして今年は、10月24日(日)が「世界宣教の日」になっています。

 今年の「世界宣教の日」教皇様のメッセージのテーマは、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒言行録420)となっています。

 神の愛の力を経験したとき、個人や共同体の生活の中で御父の存在に気づかされたとき、わたしたちは、見たことや聞いたことを告げ、分かち合わずにはいられません。

 今日イエスは、世界の周縁部へと出向かせ、いつくしみの使者、あわれみの道具とする、真の愛の物語として自らの召命を生きようとする心を必要としています。そしてこれこそが、方法は異なれども、主がわたしたち全員に向けて行なっている呼びかけです。周縁部は、わたしたちの近くに、都市のただ中に、家庭の中にもあることを忘れてはなりません。とりわけこのパンデミックの時代には、 私たちは、近くにいるのにもともと仲間として関心を持たない人々に届くように友人の輪を広げていく、日々の努力が必要なのです。宣教を生きるということは、キリスト・イエスと同じ感覚を持つ覚悟をすることであり、主によって、そばにいる人はだれであれ、自分の兄弟姉妹であると信じることです。主のあわれみの愛がわたしたちの心をも目覚めさせ、わたしたち皆を宣教する弟子にしてくださいますように。

  そして、今年2021年10月23日は、本会の来日70周年記念の日にあたります。

「世界宣教の日」教皇メッセージ


2021年10月16日土曜日

「キリスト者の召命の宣教的側面」について

 


神の声に引き寄せられ、イエスに従う道を歩む人々は、宣教と愛の奉仕を通して兄弟姉妹に福音を伝えたいという、抑えられない願望を自らの内に容易に見いだします。すべてのキリスト者は福音宣教者とされています。

 このように宣教という使命は、キリスト者の生活に飾りのように付け加えられるものではなく、信仰そのものの核心です。主との結びつきには、みことばを告げる預言者として、また神の愛のあかし人として世界に派遣されることが伴います。 

この世で、目に見えるイエズスの使命はもう終わりました。主の役目はもう終わったのですが便にこの世の終わりまで御聖体の内に残り、そこからは、主のように善を行いながらこの世を通り過ぎたいと思ぅ人々にとって促進者、援助者、支持者、導き手となられたのです。(福者マドレ・マリア・イネス)

 すべての宣教する弟子は、「よいわざを行い、すべての人をいやした」(使徒言行録1038参照)イエスと同じように、人々のもとに「出向く」よう招く神の声を心の中で聞きます。すべてのキリスト者は、洗礼の恵みによって兄弟姉妹に「キリストを運ぶ人」になると、(一般謁見講話、2016130日参照)。このことは、奉献生活や司祭職に招かれ、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と進んでこたえた人々にとりわけ当てはまります。

主は始められた仕事を続けるためにあなたを選ばれたのです。それは[キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けている所を、あなたの身で補うためです](コロサイ、124 参照) (福者マドレ・マリア・イネス)

わたしは、とりわけ司祭職と奉献生活への新たな召命を神に願い求めるためにも、主とのこの深い友情を生きるよう皆さんを強く励まします。とりわけ若者に対してキリストに従うよう説き、提案する情熱を、わたしたちは今も取り戻すことができます。

 救い主の母、至聖なるマリアは、自らの若さと情熱をみ手にゆだね、神に対して同じ夢を抱く勇気をもっておられました。マリアの取り次ぎによって、マリアのように開かれた心、主の呼びかけに「はい。わたしはここにおります」と答える心構え、そして全世界に主を告げ知らせるためにマリアのように出向く(ルカ139参照)喜びがわたしたちに与えられますように。

 20161127日教皇フランシスコメッセージからの抜粋と福者マドレ・マリア・イネス

2021年9月22日水曜日

キリストは生きている


召命

 人間は誰も一つの召命を持って生まれてきます。人は、人生の途上で必ず、自分に与えられたその召命を選択しなければなりません。


 あなたの召命は、単純に、あなたの果たすべき職務もちろんそれによって表されるものですが|だけで成るものではありません。それ以上のものです。多くの努力や数々の行為を、仕えることへと向かわせる道筋なのです。だから召命の識別において重要なのは、社会に対するそうした具体的な泰仕に必要な資質が、自分にあると気づけるかどうかです。
 それにより、そのような任務にはとても大きな意義が生じるのです。それらが、お金を稼ぐため、無為に過ごさないため、他者を喜ばせるためといった、もろもろの行為の積み重ねであることをやめるからです。わたしたちは呼ばれたのだから、そうしたことすべてが召になるのであり、そこにはわたしたちの実用的な選択以上のものがあるのです。究硫的には、なぜ自分が造られたのか、この地上で何をして過ごすのか、わたしの人生に主が望むものは何かを、知るということです。 主はわたしに、場所や時や詳細を、すべて伝えてはくださいません。 それらはわたしが賢明に選択するものです。 ただし、主はわたしの創造主、わたしの陶工であられるのですから、わたしに示してくださる人生の指針があるはずで、わたしは、主によって形成され、主に導かれるために、その声に耳を傾けなければなりません。それができれば、わたしはなるべき自分になり、自分に固有の現実に対してまっすぐに向き合えるでしょう。

                       教皇フランシスコ  使徒的勧告 「キリストは生きている」より








2021年9月7日火曜日

マリアの誕生 祝日

 教会は毎年9月8日に聖母マリアの誕生の日をお祝います。 福音書にマリアの誕生についての情報は書かれていませんが、教会で伝統があります。

 聖母マリアの誕生の祝日のお祝いは、6世紀から東部で知られています。 それは、ビザンチンの典礼の年が始まり、9月8日に設定されました。 西洋では、7世紀頃に導入され、行列の連祷で祝われ、サンタマリアラマヨール大聖堂で終わりました。

 マリア的である宣教クララ修道会でも毎年、Niña Maria(幼きマリア)の像を飾って荘厳しお祝います。👇 この写真は群馬県大泉修道院の聖堂です。

また、今年はマリア様への贈り物として、こいずみ ゆりさんの「マリア様の手を握り」の歌を歌って、ビデオ作りました。母であるマリア様といつも一緒!Vamos Maria!

2021年8月15日日曜日

 

平和のために

 

8月には、6日に広島の原爆、9日に長崎の原爆、15日に終戦記念日を迎え、戦争のない世界を願いながら平和のために祈る日々を過ごします。平和のために祈る以外、わたしには具体的に何ができるでしょうか?今置かれた場で、わたしは平和のために働く者となっているでしょうか?

 

          神よ、わたしを平和のために働く者としてください。

憎しみあるところに愛を

争いあるところにゆるしを

分裂あるところに一致を

疑いあるところに信仰を

誤りあるところに真理を

絶望あるところに希望を

闇あるところに光を

悲しみあるところに喜びをもたらす者としてください

アッシジの聖フランシスコ「平和を求める祈り」より

           わたしたちの修道会の創立者、福者マリア・イネスは、修道会創立の認可を受けた4ヶ月後に、早くも日本に4人の宣教女を派遣しました。それは70年前のことです。当時日本は敗戦の傷跡がまだ深く残っていて、多くの人々は苦しい生活を強いられていました。このことを知った福者マリア・イネスは、日本で修道会を創立したいと望んだほど、その心は日本の人々への思いで一杯でした。そして最初の宣教地となったのは、満州から命がけで引き上げてきた人々が浅間山麓を開墾して作った村、大日向でした。そこで、大日向の人々と苦楽を共にする生活が始まったのです。詳しくは、動画「来日70周年」 https://youtu.be/7lkrM7KYHNgをご覧下さい。

2021年8月1日日曜日

「主の呼びかけを聞き、識別し、生きる」第2回




生きる

 イエスは自分こそイザヤが預言した救い主であり、捕らわれている人を解放し、目の見えない人の視力を取り戻し、すべての被造物に神のいつくしみ深い愛を告げるために油を注がれた者であると、イエスは告げました。そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ421)と断言したのです。

 福音の喜びは、神との出会いと兄弟姉妹との出会いに向けてわたしたちの心を開きます。しかしその喜びは、ぐずぐずと怠けているわたしたちを待ってはくれません。もっとふさわしいときを待っているのだと言い訳をしながら、窓から見ているだけでは、福音の喜びは訪れません。危険をいとわずに今日、選択しなければ、福音の喜びはわたしたちのもとで実現しません。今日こそ召命のときです。キリスト者の使命は今現在のためのものです。そしてわたしたち一人ひとりは――結婚して信徒として生きるにしても、叙階されて聖職者として生きるにしても、また特別な奉献生活を送るにしても――、今ここで主のあかし人となるよう求められています。

主は今も、ご自分とともに生き、とりわけ親しい交わりの中でご自身に従い、直接仕えるよう呼びかけておられます。み国のために完全に自分自身を捧げるよう主が求めておられることが知らされても、決して怖がらないでください。神のために、そして兄弟姉妹への奉仕のために永遠に自らをすべてささげることは素晴らしいことであり、偉大な恵みです。

 主はご自分に従うよう、今日も絶えず呼びかけておられます。その声を聞き、教会と世界における自分の使命を識別し、神が与えてくださった今日この日に、その使命を生きるのです。

教皇フランシスコのこの言葉は、福者マリア・イネス・テレサの2つの考えに集約されます。「イエスの "来なさい "という言葉には、常にその "行きます "という言葉を速やかに、喜びをもって、喜んで答えること」です。(霊的黙想)

"私たちは主のものであり、主は私たちを呼び続け、主の恵みで私たちを満たしたいと思っておられます “。(971423)

 人となられたみことばを聞き、受け入れ、生きた辺境の地の少女、至聖なるマリアがわたしたちを守り、わたしたちの旅路にいつも寄り添ってくださいますように。

 

55回「職業のための世界祈願日」の教皇メッセージより抜粋




2021年7月22日木曜日

福者御聖体のマリア・イネス・テレサの帰天40周年

  

「はい、神に感謝です。もう終わりました。」 

  マドレ・テレサ・ボテージョ副総長が修道会のすべての姉妹達に宛てた手紙の抜粋

(福者マドレ・マリア・イネス・テレサの最後に付き添った副総長の手紙)




午後5:30頃、昼食を食べさせるためにベッドに腰掛けさせました。召し上がったのは肉汁をコーヒーの小さいカップ半分位と、そこに細かく切ったクラッカーの2枚位、これは出来るだけ毎日出しています。ひと匙ずつ召し上がり、プラタノマチョ(バナナ)を3切れくらい。「美味しいですか?」と聞くと、「とても美味しい」と答えました。娘たちが持っていくものに美味しくないものはありません。すべては「とても美味しい」と言われました。プラタノマチョの次にミルクコーヒー23匙と少しの人参ジュース、そして少しの水と、消化を助けるために先生から勧められた胃薬(シトロソディナ)を差し上げました。シトロソディナの最後の一杯を差し上げて、私が言いました。「終わりました、ヌェストラ・マドレ、神に感謝」。そして彼女がはっきりした声で繰り返しました。「はい、神に感謝です。もう終わりました。」それから実際に2時間くらいその位置と姿勢でしたので、「その位置で疲れてはいませんか?」と尋ねると、「はい、とても疲れています」と答えられました。

 食事を食べさせるため胸の上においたナプキンを取り上げると、何かこぼれていることに気が付いて、白い寝間着の襟まで濡れていました。 (白い寝間着を着ていたのは永遠の婚宴に出る様、白い服を着ていなければならないと言っていたからです)ちょっと濡れていただけでしたので、落ちたものは恐らくシトロソディナだったのでしょう。 それで私は言いました。 「ああ、今はシトロソディナが首の為にもなるでしょう。見て下さい、私がこぼしてしまいました。少しシッカロールパウダーをかけましょう。」シッカロールパウダーをとり、首に付けようとしたとき、彼女が鼻から息を吸い込み、ため息のような特別の呼吸をしました。私がじっと見ていると、もう一度ため息をしましたが、今回は鼻からだけでした。ロは閉じていて、手はきちんと足の上に置いてありましたが、顔をみると、最後の呼吸だと分かりました。すぐにエルマナスに言いました。 「エルマナス、ヌェストラ・マドレが息を引き取っています」そして祈り始めました。 イエズス、ヨセフ、マリアよ・・・

(病気という十字架より)

1981年7月22日に、福者マドレ・マリア・イネスは帰天しました。

 

2021年7月6日火曜日

すべての若者への、すばらしいメッセージ

 

教皇フランシスコ使徒的勧告 『キリストは生きている』より

若者への素敵なメッセージがあるのでご紹介します。

            

全ての若者への、すばらしいメッセージ

いかにしても、すべての若者に、今もっとも重要なこと、第一のことを、口にせずにはいられないことを、お伝えしたいと思います。だれもが、いつでも、頻繁に、耳に入れておくべき、三大真理を含むメッセージです。

 

愛である神

まず皆さんに伝えたい一つ目の真理は、「神はあなたを愛しておられる」ということです。神はあなたが大好きなのです。人生に何があろうとも、決してこれを疑ってはいけません。いかなる状況にあっても、あなたはどこまでも愛されているのです。

  神にとってあなたは本当に大切で、取るに足らないことなどなく、あのかたにとっては大事な存在なのです。あなたは、あのかたの手でこしらえたからです。

  このかたは愛です。



 キリストはあなたを救う

 二つ目の真理は、キリストは愛ゆえに、あなたを救うためにご自分を与え尽くしたということです。十字架上で広げた腕は、際にまで手を伸ばすことができる、もっとも尊い友のしるしです。

 

 十字架上でわたしたちを罪から解放してくださったキリストは、今日もなお、完全にご自分を与え尽くす変わらぬ力をもって、わたしたちを救い続け、あがない続けておられます。十字架を見つめ、イエスにすがることで、救っていただきなさい。イエスの差し出す救いを受け入れる者は、罪と悲しみ、内面的なむなしさとを孤独から解放されるからです。だから、あなたが過ちを犯して離れたとしても、このかたは十字架の力をもって、もう一度あなたを抱き起してくださいます。決して忘れないでください。

 


このかたは生きている

 先に挙げたものとは切り離せない、三つ目の真理があります。このかたは生きている----。これはたびたび思い浮かべなければならないことです。ご自分のもたらす恵みでわたしたちを満たしてくださるかた、わたしたちを解放してくださるかた、変えてくださるかた、いやし慰めてくださるかた、そのかたは生きています。そのかたこそ、復活し、人知を超えた活力に満ち、無限の光をまとっておられるキリストなのです。

  生きているのであれば、今この瞬間も光でみたしてくださるはずです。もしそうであるなら、孤独や捨ておかれることはもう決してないはずです。だれもが去ってしまったとしても、約束どおりこのかたは、とどまっておられます。目には見えずともその存在をもってすべてを満たしてくださり、あなたがどこに行こうともあなたを待ち続けておられるのです。

2021年6月16日水曜日

      御聖体の宣教クララ修道会の70周年、40周年の記念

 
 御聖体の宣教クララ修道会は、1951年6月22日に聖座から認可されてから、今年で70年になりました。また、1981年7月22日には、創立者である福者御聖体のマドレ・マリア・イネス・テレサの帰天40週年を迎えます。

 この記念の年に、本修道会は様々なイベントを企画しました。下記のプログラムは、日本地区として行なうものと、ローマの総本部での開会式と講話を載せたものです。オンラインのリンクが決まったら、後ほどお知らせいたします。

 どうぞ、ごらんください。







2021年5月17日月曜日

マリア様への思い


 

 宣教クララ会の創立者、福者マドレ・マリア・イネス・テレサは本当にいつでもマリア様と共にすべてを行った方です。Vamos María(マリア様、さあ始めましょう、行きましょう)」というのが自然と口をついて出た言葉でした。グアダルペのマリア様から、個人的なお約束を受けたくらいの方ですから、どれほどマリア様と親しかったかがわかります。 

 メキシコから日本に来ている若いシスターも何か始めようとするときに、「Vamos María」と口ずさんでいます。若い時から、マリア様に親しんで、ともに歩んできたからでしょう。

私がマリア様のことを思うときは、なんだか願い事をするときが多いと感じます。何かを始める時、特に自信がない時に「マリア様、助けてください」と願います。また、お台所で煮物などをしていて「味がどうも・・・」というようなときに「マリア様どうぞ味を直してください」というように。自分では、もうこの味はどうにもならないと思っていても、食事の時間に、周りの人が「おいしい」と言ってくれて、自分でも恐る恐る口に入れてみると、「おや?」と思うことが何度もありました。

そのほかにイエズス様にこんなことを願うのはと、気が引けるというようなときにもマリア様になら願えます。こう考えてみると、やはりお母さんだからということなのでしょう。

メキシコの方たちとはだいぶ違いますが、それでもお母さん、マリア様に対する、思いはそれでいいのかなとも思います。

2021年5月9日日曜日

聖母マリアと召命のプレセント(その②)


 違う道を探そう。でも忘れられない。・・・そんなこんなで8年が過ぎたある夜、「ぐずぐずしているうちに時間は過ぎてしまう。修道院だって年齢制限があるかも知れない!」 とシスターTの心が高ぶり、修道女になるために洗礼を受けることを決心しました。そして教会の入門講座で勉強始めたのです。1年間の勉強で、”小説の主人公の生き方はイエス様が教えた生き方だったのだ” “主人公の彼女を通して主イエス・キリストに魅了されたのだ” とシスターTは気づいたのでした。 

 洗礼を受ける3か月前、知り合った信者のご婦人に、“修道女になりたい望みがあるが修道女の知り合いもなくどうやって探したらいいか考えている” とお話ししたところ、次にお会いした時本会の“召命黙想会”の案内が載っているカトリック新聞の切り抜きを持ってきてくださいました。シスターTはそれに申し込みました。そこで初めて出会った修道女は明るく気さくだったので安心しました。参加者との交流もありとても和やかな雰囲気の中行われた黙想会初体験の印象はとても良いものでした。他の黙想会にも参加しました。黙想会に参加する度にイエス様のことを想いながら祈ることに心地よさを感じ、世俗のことはむなしいことに思えました。自分の全てを賭けてイエス様に付いて生きていきたい望みは揺るぎないものであることを徐々に確信していくことができました。





  ところが、また迷いが始まりました。召命黙想会で知り合った参加者が話していた「私は呼ばれているような気がする」というフレーズ、ずっと聞き流していたのに、急に気になりはじめたのです。 “イエス様が夢に出できたこともないし、ささやきを聞いたこともないので、私は呼ばれているような気がしない!” ただ私自身の望みを実現したいために押しかけて行くことをイエス様は喜んでいないのでは? そんな考えが頭から離れず心が揺らぎ始めました。先のご婦人にそのことをお話しすると、指導を受けるためにある神父様を紹介してくださいました。霊的指導を引き受けてくださった神父様のお答えはこうでした。「“ずーっと気になってしょうがない”  “忘れられない”  そのことを   “呼ばれている”  というのです。」 その言葉を耳にし、迷いから解放されました。


 本会の召命担当の方の導きに助けられて入会に至ったのは、あの小説との出会いから15年後の40歳の時でした。マリア様の「即答」には程遠いシスターT の「はい」でしたが、それから16年経った今もシスターTは、神様からプレゼントされた修道召命と、それを導き育んでくださった方々に感謝しています。そして召命は入会して終わりではありません。日々神様への「はい」を果たすためには自我との戦いがあります。シスターTは度々自分の弱さに負けますが、その度に新たに生まれ変わる力をイエス様から頂いています。呼んでくださったイエス様に少しでも喜んでいただける修道女になることが唯一の望みです。 

 


イエス様の呼びかけかたは多種多様です。

       5月、マリア様の月。マリア様の召命を想い巡らしながら、

「わたしはどうかな?」と少し考えてみてはどうでしょうか。

天使ガブリエルに代わる“サイン”に気づくかもしれません