2023年12月12日火曜日

奇跡のバラ

 

グァダルペの聖母


今年もグァダルペのマリア様の祝日の
1212日が近づいてきました。私たちの母であるマリア様に孝愛と信心を表わすためにも、マリア様がどのようにご出現されたかを思い出してみましょう。

今から492年前、1531年にさかのぼります。当時メキシコの地は、スペインによる征服によってアステカ王朝が滅び、その後宣教師が派遣されてキリスト教が普及し、多くの人々が受洗の恵みにあずかりました。そのなかに、ホワンディエゴと呼ばれる一人のインディオが、現在のメキシコにすんでいました。彼は非常に信心深くいつも教会に通っていました。

129日、その日も早朝ミサにあずかるためにテペヤックという丘のふもとに来た時、美しい音色と小鳥のさえずりが聞こえ、それと同時にホワニートと自分に呼びかける声が聞こえてきました。急いで丘の上に上ると、サボテンの生えた岩山の中に光が射し、虹の形の雲の上に美しい婦人が見えたのです。彼女は、自分がおとめマリアであることを告げて、自分のメッセージをメキシコの司教様に伝えるように頼みました。それは、この地に聖堂を立ててほしいこと、その聖堂ですべての人を愛し助け保護したいこと、ご自分が慈しみに満ちた母であること、聖母を愛するすべての人、聖母に信頼を寄せるすべての人の嘆き、痛み、苦しみを癒し和らげて下さりたいこと・・・。しかし、ホワンディエゴが喜々として司教様に伝えたメッセージは、信じてもらえませんでした。

その日の午後、再び聖母にお会いしたホワンディエゴは、自分はふさわしくない、小さな踏みつけられる虫けらのようなもの、もっと尊敬される人に頼んでほしいと願ったのでした。聖母は、ご自分の望みを果たせないことで落ち込んでいる彼を励ましながら、聖堂が建てられるためには、使者としての彼が必要であることを告げ、もう一度司教様のもとに送り出したのです。

 

1210日、ディエゴは再び司教様にお会いし、聖母の強いお望みを誠実、純朴そのままに伝えたのです。司教様はその誠意に打たれ、そのお方が確かに聖母マリア様であるとのしるしを頂いてくるように命じられました。その日の夕方、聖母はテペヤックの丘で待っておられました。ホワンディエゴが、司教様の依頼を伝えると、明日、その証拠の品を用意するのでまたここに来るようにとおっしゃられ、ディエゴは安心して家路につきました。

ところが翌日、同居していた病気の叔父の体調が悪くなり、聖母が用意して下さるものを貰いに行くことができなかったのです。

 

1212日、ホワンディエゴはマリア様に会わないように別の道を通って司祭を迎えに行こうとしたのですが、マリア様がその道で待っておられ、病気のことは何も心配せずに、ご自分にまかせるようにとさとし、そして最初に出会った場所に上り、そこに咲いているいろいろな種類の花を切り取って私のもとに持ってくるようにと言われたのです。ディエゴが行ってみると、花などなにもないはずの岩山に、色とりどりの美しいバラの花が咲いていました。ディエゴはそれらのバラを切り取り、自分の着ていたインディオたちがよく着用するマントに入れて、マリア様に届けると、マリア様はバラを受け取り、そのままディエゴのマントに戻して、このバラを証拠の品として司教様に届けるように、そして聖堂を建てるように言われたのです。

 


ホワンディエゴが司教様の前で、マリア様からのしるしをお見せすると、バラの花がマントからこぼれ落ちた瞬間、司教様はその場にひざまずきました。なぜなら彼が来ていたマントにはマリア様のお姿がくっきりとそして美しく映し出されていたからです。それは人の手で描かれたものではなく、マリア様ご自身による奇跡的なお姿のでした。

 

ご出現から500年を迎えようとする今世紀にまで、マリア様のお姿は色あせることなく、その美しさと母のまなざしの優しさをとどめ、合わされた両手の中にすべての人を包み込み、御父に、御子キリストに祈り続けていらっしゃるのです。

母であるマリア様に敬愛を込めて心の花束をささげましょう。私たちの日々の歩みをいつも見守ってくださいますように。





2023年11月20日月曜日

森司教様 ありがとうございました!(その②)

 

 司教様の講話の内容は皆さんご存じだと思いますが、身近な話題から参加者の顔を見ながら、参加者に寄り添ったお話をされていました。

 残念ながら修道会の都合で(主催するシスター達の高齢化)「女性の黙想会」は、45回で終了するに至りました。最後の黙想会の最後の時間には、司教様が名簿から無作為に参加者を選び、「女性の黙想会」初めてで最後の分かち合いの時間があり、本当に有意義な時間を共に過ごすことができました。



 私は司教様の葬儀ミサには参加することができませんでしたが、“全てを献体”されたと聞き、イエス様のように“すべてを神様の御手に委ねて”捧げられたご生涯だったのだと思いました。「女性の黙想会」の講話の中で「人が亡くなると“永遠の安息”を願うが、天国に行ったらそんな暇はない。今までお世話になった人やいろいろな人に会うから「ありがとうございました」「すいませんでした」と忙しいと思う」とおっしゃっていました。




 10月に聖パウロ修道会の神父様とブラザー達が来られました。なんと指導は森司教様。残念ながら亡くなられていましたので、ビデオの講話を受けていらっしゃいました。森司教様は今も天国で、また地上においても、私たちを神様へと導く良き牧者であり、よき相談相手として忙しい日々を送られていらっしゃるのかもしれません。森司教様、本当にありがとうございました。



メモリアルビデオ → https://youtu.be/v9ww2ex3PLA 

2023年11月2日木曜日

森司教様 ありがとうございました!(その①)

  92日に森司教様が亡くなられた事を聞き、あらためて森司教様の暖かな、優しい微笑みを思い出しました。悩みや問題を抱えている方のよき相談者としても尊敬していました。

 私が直接司教様と出合ったのは召命促進の仕事を始めた頃です。それまでも何度かお姿を拝見していましたが、それは“遠くから眺める”それこそ偉い方というイメージでした。

 前任者から引き継ぎ「女性の黙想会」の指導を頼んでいましたが、いつも快く引き受けてくださいました。「召命黙想会」の指導を頼むと「僕でいいの?」と少し照れた表情で引き受けてくださいました。


 黙想会はほとんど軽井沢修道院でしていました。来られたら挨拶しょうと待ち構えているのですが、いつの間にか司教専用(指導司祭のため)のご自分の部屋に入られていることが多かったです。初めのころは玄関に男性用の靴があって気づくこともありました。また帰りの時も黙想者に気づかれないように、そっとお帰りになりました。何度目からはその原因らしきものに気が付きました。参加者は“森司教様の追っかけ”の方々が多く集まります。お帰りの時間を見計らってロビーや外で待ち伏せしており、姿を見るやいなや人気スターのように「キャーキャー」と写真を撮られていました。きっとそれが嬉しくもあり恥ずかしかったのかなと思います。

 「女性の黙想会」のオリエンテーションの時は準備した前の席ではなく いつもご自分で椅子を持って後ろの隅に座っていらっしゃいました。私は恥ずかしがり屋なのかと思っていましたが、司教様は全体を見られていたのだと気づかされました。ある黙想会の打ち合わせでは、「オリエンテーションの時は皆の顔を見て、参加者が理解しているかを確認した方がよい」とアドバイスをくださいました。“女性が3人集まると・・といわれますが、40名の女性が一斉に集まるとそれは本当に大変なものです。特に食事の席にはいつも悩まされていました。グループで席を取ってしまい、一人参加の方はいつもうろうろしてしまいました。そんな時、司教様は「トランプで席を決めるのもいいかも」とアドバイスをくださいました。食堂の席に無作為にトランプを並べ、その後入り口でトランプを取っていただきます。すると皆楽しそうに自分の席を探していました。一人参加の方も、またグループ参加の方もいろいろな方と話せて、最後はみな友達のように別れを惜しんでいました。さすが!司教様!!

メモリアルビデオ →(https://youtu.be/v9ww2ex3PLA)


2023年10月23日月曜日

そしてあなたは宣教の熱意によって、すでに変容させらていますか。。。

 「燃える心、踏み出す足」(ルカ24・13−35参照)


2.パンが裂かれると、目が「開け、イエスだと分かった」――聖体におられるイエスは、宣教活動の頂点であり源泉

 神のことばで心が燃えていたので、エマオの弟子たちは謎に包まれた旅の人に、夕食をともにしてほしいと頼みます。そして食卓を囲み、そのかたがパンを裂かれると、彼らの目は開きイエスだと分かるのです。弟子たちの目を開く決定的なものは、イエスによる一連の動き、すなわち、パンを取り、賛美の祈りを唱え、裂いて渡すことです。これらはユダヤ人の家長がふつうに行うことですが、聖霊の恵みをもってイエス・キリストが行うことで、それらは二人の会食者にとって、パンの増加の奇跡のしるしに、そして何よりも、十字架のあがないの秘跡であるエウカリスチアのしるしに書き換えられるのです。ところがパンを裂いておられるのがイエスだと分かった瞬間に、「その姿は見えなくなった」(ルカ24・31)のです。この事実から、信仰の本質的な現実が分かります。パンを裂くキリストは、今やご自分が裂かれたパンとなり、弟子たちに配られ、そうして彼らの血肉となるのです。目には見えなくなってしまうのは、キリストは今や弟子たちの心の内に入り、彼らをさらに燃え立たせておられるからです! そしてすぐさま道を引き返すよう駆り立て、復活したかたとの出会いというかけがえのない経験を、すべての人に伝えるよう促すのです。このように、復活したキリストはパンを裂くかたであると同時に、わたしたちのために裂かれたパンでもあられます。ですから宣教する弟子一人ひとりに求められているのは、イエスのように、イエスを通して、聖霊の働きによって、パンを裂く者となり、世のために裂かれるパンとなることなのです。

 この点からいえば、キリストの名において物質的なパンを飢えた人々と分け合うということだけで、それはすでにキリスト者の宣教活動なのだということを忘れてはなりません。キリストご自身である聖体のパンを裂くことは、なおのこと宣教の最高の行為です。感謝の祭儀こそ、教会生活と宣教の源泉であり頂点であるからです。

 教皇ベネディクト十六世は次のようにいいます。「(聖体の)秘跡の中で祝う愛を、自分だけのためにとどめておくことができません。この愛は、本来、すべての人に伝えられることを求めます。神の愛、キリストと出会うこと、キリストを信じること――世界はまさにこのことを必要としています。ですから、聖体は教会生活の源泉と頂点であるだけでなく、宣教の源泉と頂点でもあります。『真の意味で聖体に生かされた教会は、宣教する教会です』」(使徒的勧告『愛の秘跡』84)。

 実を結ぶために、わたしたちは主につながっていなければなりません(ヨハネ15・4−9参照)。このつながりは、日々の祈りによって、とくに、聖体によってわたしたちのもとにとどまっておられる主の現存を前に、沈黙をもって、礼拝することで得られるものです。キリストとのこうした交わりを愛をもってはぐくむ宣教する弟子は、行動する霊性の人となるはずです。エマオの二人の熱心な、とくに日が暮れてからの「主よ、一緒にお泊まりください」(ルカ24・29参照)という強い願いにあこがれて、イエスがともにいてくださることを熱望する心を持ち続けられますように。


(2023年「世界宣教の日」教皇メッセージ)



2023年10月1日日曜日

 そしてあなたは宣教の熱意によって、すでに変容させらていますか。。。

 

「燃える心、踏み出す足」(ルカ24・13−35参照)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今年の「世界宣教の日」には、ルカ福音書のエマオの弟子たちの物語(24・13−35参照)からインスピレーションを得て、「燃える心、踏み出す足」というテーマを選びました。この二人の弟子は混乱と失意のうちにいましたが、みことばと裂かれたパンにおられるキリストとの出会いによって、エルサレムへと引き返し、主はまことに復活されたと告げる心に火がついたのです。福音の物語の示唆的ないくつかの描写からは、弟子たちの変化がうかがえます。イエスが聖書を説明してくださったことで燃える心、イエスだと気づくよう開かれた目、そしてきわめつけは踏み出す足です。宣教する弟子たちの旅の輪郭を示すこの三つの姿を黙想することで、現代世界においての福音宣教の熱意を新たにできるでしょう。

1.「聖書を説明してくださったとき」の燃える心――宣教活動において、神のことばは心を照らし変えてくださる

 エルサレムからエマオに向かう道すがら、二人の弟子の心はその表情が示すとおり、信じていたイエスの死によって悲しみに包まれていました(17節参照)。十字架につけられた師の敗北を目の当たりにして、そのかたこそメシアだとの期待が崩れ去ったのです(21節参照)。

 そのとき、「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」(15節)ました。最初に弟子たちを召し出されたときと同じく、戸惑いの内にあるここでもまた、主はご自分から弟子たちに近づき、歩みをともにされます。その深いいつくしみによってイエスは、わたしたちに過ち、疑い、弱さがあろうとも、悲しみや落胆から「物分かりが悪く、心が鈍く」(25節)、信仰の薄い者になってしまっても、わたしたちとともにいてくださることに倦みはしません。

 あのときと変わらず今日も、復活の主は宣教する弟子のそばにおられ、寄り添い歩んでくださいます。迷いの中にあったり、力を落としていたり、得体の知れない悪に取り囲まれ息の根が止められる恐怖の中にあるときは、なおさらです。ですから、「希望を奪われないようにしましょう」(使徒的勧告『福音の喜び』86)。主は、わたしたちが直面する問題よりはるかに力あるかたです。まして、世に対する福音宣教の中でぶつかる問題には、いっそう力を振るってくださいます。宣教の使命は結局のところ主のものであり、わたしたちは主に仕えるささやかな協力者、「取るに足りないしもべ」にすぎないからです(ルカ17・10参照)。

 世界中のすべての宣教者、とりわけ、困難を味わっている宣教者の皆さんに、キリストにおいてわたしが心を寄せていることを伝えたいと思います。親愛なる皆さん。復活の主は、必ず皆さんとともにおられます。遠い地で福音を伝える使命のため、皆さんがささげる寛大さと犠牲を理解しておられます。人生は毎日が晴天というわけではありませんが、主イエスが受難の前に友に語ったことばを、いつも思い起こしてください。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16・33)。

 エマオへの道で二人の弟子の話を聞くと、復活されたイエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明され」(ルカ24・27)ました。すると弟子たちの心は熱く燃え、ついにはこう語り合うまでになります。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。まさにイエスは生きたことばであられ、心に火をつけ、心を照らし、変えることのできる、ただお一人のかたです。

 ここまでくると、聖ヒエロニモの主張、「聖書についての無知は、キリストについての無知である」(『イザヤ書注解』序文)の理解が深まります。「聖書に対してわたしたちの心の目を開く主の存在なしに、聖書の深みを理解することはできません。しかし、その逆も同じように真実です。聖書なしには、イエスの宣教の出来事、そしてこの世界におけるイエスの教会の宣教の出来事は理解できません」(教皇フランシスコ自発教令『アペルイット・イリス』1)。ですからキリスト者の生活にとって聖書の知識は大切なものであり、キリストとその福音をのべ伝えることにおいてはなおさらそうなのです。そうでないならば、自分の考えや計画ではないものを、どうやって人に伝えるのでしょうか。ましてや、冷めた心をもって、人の心を燃やすことなどできるでしょうか。

 ですから聖書の意味を説明してくださるかた、復活した主に、いつも寄り添っていただきましょう。主の霊からもたらされる力と知恵をもって救いの神秘を世にのべ伝えられるよう、主に自分の心を、燃え上らせ、照らし、変えていただきましょう。


(2023年「世界宣教の日」教皇メッセージ)

2023年9月17日日曜日

私の召命 (その②)

 


 私の中で徐々に修道生活に魅かれていく自分を感じながらもやはり本当に神様は私にこの生活を望んでいらっしゃるのだろうか、という疑いや迷いも有り、いくつかの修道会の黙想会に参加したり、指導司祭に相談したりしましたが、当時、日夜ご聖体礼拝をしている、又世界各地で宣教している観想と活動の特徴を持つ本会に魅かれ入会いたしました。

 もうまもなく誓願50周年を迎えようとしている今、洗礼に至るまでの道、また修道会入会までの道、そして今日までの道を振り返る時、神様の不思議なお導きを、自分では計ることのできないみ摂理の中で生かされてきたことを痛感するのです。私が命を頂き、生かされている意義を知り、神様の望みを実現できたら、これ以上の幸せはないと確信しています。「私は御父の望みを行うために来た」と仰った主イエス様に倣って日々、み旨が行われますようにと祈って参りたいと思います。

                           シスターマリア・ゴレッティ石塚


2023年9月1日金曜日

私の召命(その①)

 


 人間の生きる目的は何ですか。命はどこから来るの?


 この世界の不平等はどうして?等々、誰もが人生に一度は考えるこれらの問いに、私は学んでいたミッションスクールのシスター達を通して、その答えを知り、高校2年生のクリスマスに洗礼のお恵みを頂きました。その後、女性として当然な人生の岐路に立ち、神様は私にどの道を歩むことを望んでおられるかを日々、祈らも模索している状態でした。


 そんな時、本会ご聖体の宣教クララ会の研究会案内をカトリック新聞で見つけ、場所が軽井沢であることに興味を持ち、参加致しました。



 






 シスターたちの指導の下、「結婚・修道生活・独身」の三つの道についてキリスト者として、どう生きるか、それぞれの特徴や召命の在り方についてお話を聞いたり、祈りを深めた数日間を美しい自然の中で、静けさと貧しいシスターたちの生活を垣間見ながら過ごしました。







2023年3月11日土曜日

四旬節

 


春が訪れ、今年も四旬節、恵みの時が流れています。

皆さんいかがお過ごしですか。

 教皇様は今年の四旬節メッセージで四旬節第2主日の福音、タボル山での御変容の黙想から主の栄光ある復活の頂をめざす旅に誘ってくださいました。

どのように?…ダボル山で御父は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」とおっしゃいました。「道」であるキリストに従いながら、皆と共に歩むシノドス的旅です。

 私たちが遭遇する様々な苦しみ、痛み、惨めさなど様々な出来事をご受難のイエス様の前におき、赤裸な心からの叫び、祈りをイエス様はお聞きになり、ご覧になります。あなたと一緒にいるといわれます。信頼するなら一歩一歩と引っぱってくださり、イエスのみ顔を探す私たちに「兄弟の中にいるから出向いて」とおっしゃるのです。確かに私たちは自分から出て向いていくこと、恐れに躊躇してしまうのですが、イエス様の受難を見つめながら一人ひとりに対するイエスの愛を見つめついてまいりましょう。

 罪人の母といわれた、マリア様は弱い私たちを母の心で十分承知して、手を差し伸べてくださっていますので、馳せよりましょう。


復活の勝利の主を仰ぎ見、アレルヤをうたう日に向かってご一緒に祈りましょう。

     主よ、私たちに与えてください

     希望の日、喜びの日を

      まことの痛悔に洗われて、

      清い愛が湧き出るように。

      主よ、深く悟らせてください、 

                 恵みあふれる過ぎ越しの神秘を。

       私たちも罪に死んで

       神のために生きるように。

 

 

 


2023年1月2日月曜日

新年のご挨拶

     


 私たちと共にてくださる主がお生まれになった喜びの降誕節の中で新しい年を迎えました。

 神の慈しみのみ心からこの年何を送ってくださるのか、そのすべてに心を開き愛でお答えいたしましょう。私たちと共にいてくだる主です。何か未ようとも一緒に歩んでくださいます。そして、グアダルペの聖母マリア様は「私がここにいるではありませんか、他に何か必要ですか」と手を差し伸べてくださいます。

 さあ、皆さんご一緒に主を仰ぎ、いただく御旨を生きていきましょう。宣教クララ会シスター一同、皆様のご家族のお幸せ、世界の一日も早い平和の実現をお祈りいたします。

いつもご覧いただきありがとうございます。今年もよろしくお願い致します。