謁見中、教皇は聖ヨセフをめぐるカテケーシスで、「優しさにおける父、聖ヨセフ」をテーマに講話された。
福音書は、ヨセフが父親としてどのようにイエスに接したのかを具体的に記していない。しかし、ヨセフが「正しい人」であったことは確かであり、そこからイエスに対する教育を想像することはできる。
ヨセフはイエスが「知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛され」(ルカ2,52)成長していく姿を見ていた。主がイスラエルに対しそうしたように、ヨセフは父としてイエスに「腕を支えて歩くことを教え」、頬ずりするために抱き上げ、「身をかがめて食べさせた」(参照 ホセア11,3-4)。
福音書が示すように、イエスは神とその愛について話す時、常に「父」という言葉を用いている。また、イエスの説教の多くのたとえでは、「父」が中心的役割を担っている。その中で最も知られるのは、ルカ福音書の「放蕩息子」のたとえ(参照 ルカ15,11-32)に登場する父親であろう。このたとえでイエスはこう語る。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、哀れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15,20)。放蕩息子は父から罰せられると思っていたにも関わらず、父の抱擁を再び見出した。
神の優しさは、この世の論理より偉大なものである。それは思いがけない形の裁きである。神はわたしたちの罪や過ちや堕落に驚かれないが、わたしたちが神ご自身の愛に心を閉ざすこと、わたしたちの信仰の欠如に驚かれる。神の愛の体験の中には、偉大なる優しさの体験がある。それを最初にイエスに教えたのは、まさにヨセフであった。
優しさとは、感情的な問題ではない。それは、自分のありのままの惨めさのうちに、愛され、受け入れられ、神の愛を通して変容されたと感じる体験である。
聖ヨセフの父性の中にわたしたちを映し出しながら、主の優しさと愛を受け入れることで、自分も同じように人を愛せる者に変容させられたかを自問してみよう。
ヴァチカンニュースより