2012年4月8日日曜日

御聖体の宣教クララ会 のあゆみ



1951 1960

宣教者の霊魂がどんな所でも、あなたと出会いますように。人々を助ける時、様を知らせる時、犠牲の時、迷える羊を捜す時、海を巡航する時、田園、美し日暮れの空、きらきら光る星、静かな月、善も悪も暖める大陽を眺める時、あたと出会いますように。(『心の竪琴』第2部6章)
「心の竪琴」とは創立者が、姉妹のために書き残した本の題名。



到着後早々、聖パウロ女子修道会に寄宿させてしヽただきながら(6ケ月間)、宣教には必須条件の「日本語」を六本木のフランシスコ会経営の日本語学校で学び始めた。翌年9月、現在地(世田谷区桜新町)に日本家屋を購入、日本における「御聖体の宣教クララ修道会」が創設された。来日一年後の1026日には初めての日本人入会者2名を迎え、後に続くであろう志願者たちのためにも、修練院建設を迫られることになった。この周辺は道路が狭く、広い地所をと手を尽くしたが、結局、敷地内に小さい修練院を新築した。同じ時期、 旧満州開拓団が引き揚げ後、日本語学校で知り合ったフランシスコ会コロンビア管区のコンラード神父の好意で、長野県軽井沢町より北へ5キロ、浅間山麓を開拓して村作りを
している大日向村で宣教の第一歩を踏み出した。隣が牛小屋という粗末な小さな家に住み、家庭訪問や、保育園、簡単な医療の手伝いなど、貧しい生活の中での活動だった。志願者が除々に増えていく中、大日向と軽井沢の中間地点の中軽井沢(現在地)に修道院が建設され、東京修道院の一部と修練院が移転、同時に御聖体の宣教クララ修道会の本部も移動した。

開拓団の一部の子供たちと、戦争の影響で家庭に恵まれない子供たちの養育を
依頼され、その施設「聖アントニオの家Jが発足した。しかし、当時の国の福祉行政では枠外ということで、―の費用を修道院が負担した。33名の子供たちとの生活のため、当時、日本に駐留していたアメリカ軍の兵士とその家族に援助を願い、修道女たちも牛や豚を飼い、鶏を育てて卵を売り、近所の方に聞きながら畑を作り、不慣れながらも自綸自足の生活に励んだ。
           
一方、創立者の第一の願望である宣教活動も活発に展開されていった。自転車に映写機を 積んで、山道もいとわず「キリストの教え」を伝えて歩く姿に、土地の人々も次第に心を開き、信仰を共にする喜びの輪が広がって行った。特に、大日向はコンラード神父の努力と相まって村の人口の約半数が信者になり、
人々の協力によって村の中央に教会が建ち、カトリック村と言われるほどになった。その後、時代の流れと共に、今は開拓村とは思えないほどに変貌している。

1955年頃は、戦後と復興の狭間で世相が安定せず、都会で働きたい若い女性や学生が、安心して生活できる「場所」が、強く要請されていた時代であったので、そうした人々を対象に、共同生活を通しての宣教活動の場としての施設「エリザベット会」が発足した。

日本の社会も徐々に落ち着き、次第に会員が増えていくなど、種々の情勢の変化に伴い、1960年には東京修道院の土地を拡大し、修練院を含むコンクリート三階建の修道院が完成、日本地区本部と修練院が再度東京に移転した。



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