2022年9月25日日曜日

心に耳を傾けることを学ぼう

 教皇フランシスコのメッセージに耳を傾けましょう

 「識別」についてのメッセージで教皇は霊的識別を学ぶ例として、聖イグナチオ・デ・ロヨラの体験を取り上げられた。



 霊的識別とは何かを教える例として、聖イグナチオ・デ・ロヨラの人生を決定づけた出来事がある。イグナチオは戦争で片足を負傷し、家で療養していた時、退屈しのぎに何か読み物を求めた。彼は騎士物語が好きであったが、家には聖人たちの伝記しかなかった。仕方なしにそれを読んでいるうちに、彼は新しい世界に目覚めた。

 その新しい世界は彼を捉え、騎士の世界と肩を並べるまでになった。彼は聖フランシスコや聖ドミニコの生き方に魅了され、それに倣いたいと思うようになった。一方で、騎士の世界も相変わらず彼を惹きつけていた。こうして、彼はこの二つの世界について交互に思いをめぐらせていた。そのうち、イグナチオは二つの世界の違いに気付くようになった。彼の自叙伝によれば、この世のことを考えると多くの楽しみを覚えたが、疲れて考えるのをやめると虚しさや失望を感じた。しかし、エルサレムへ裸足で向かい、草だけを食べ、聖人が日ごろしていたようなすべての苦行をするという考えは、慰めを与えただけでなく、その考えをやめたあとも、満足と喜びを残した。

 イグナチオのこの経験から、わたしたちは特に2つの側面に気付くことができる。まず一つは時間である。世俗的な考えは、最初のうちは魅力的であるが、そのうちメッキが剥げ、虚しさを残す。これに対し、神を思うことは、初めは抵抗感があっても、そのうちに今まで知らなかった平和に気づき、その心の平安は長い間続く。また、もう一つの側面は、思考が到達する地点の違いである。最初の漠然とした考えから、識別の深化を経て、例えば、何が自分のためになるのか、抽象論や一般論を超えた、自分の人生の歩みに沿ったものとして理解できるようになる。 

 大きな問いは人生をある程度歩んだ時に持ち上がる。そして自分が何を求めているかを知るためには、その歩みを逆にたどる必要がある。イグナチオは、負傷して父の家にいた時、神のことも、今後の人生も考えてはいなかった。彼は、自分の心に耳を傾けることで、神を始めて体験した。そこでは、不思議な価値の転換が起こった。一見魅力的な物事は彼を失望させ、華々しくない別のことは持続する平安を与えた。

心に耳を傾けるというこの態度を、わたしたちは学ぶ必要がある。一つの選択や判断をするには、心の声を聞かなければならない。わたしたちはテレビやラジオや携帯電話は聞くが、自分の心を聞くことができるだろうか。

 イグナチオはやがて聖人伝を読むことを勧めるようになるが、それはわたしたちとあまり変わりのない人々の生活における、神に従った生き方というものを、物語の形をとってわかりやすく表しているからである。聖人たちの行いはわたしたちに話しかけ、その意味を理解させるのを助けてくれる。

  二つの世界の間で揺れるイグナチオのエピソードに、わたしたちは「識別」におけるさらにもう一つの重要な側面を認めることができる。そこには「偶然」が見られる。家には騎士物語ではなく聖人伝しかない、こうした一つの悪条件からすべては始まった。しかし、その不都合は大きな転換の可能性を秘めていた。

イグナチオはこのことに気付いてからは、そこにすべての注意を向けた。神は予測不可能な出来事を通し、時には悪条件の中で働かれる。

 

 わたしたちは同様のことをマタイ福音書の一節の中にも見た。ある人が畑を耕しているうちに地中に埋められた宝に行き当たった。それは思いがけない出来事であった。しかし、重要なことは、この人はその大きな幸運に気づき、持ち物をすっかり売り払い、その畑を買ったということである(参照 マタイ13,44)。

  識別は、思いがけない出来事の中で、イグナチオの足の負傷のように、時には不快な状況の中でも、主が与えるサインを認識することを助けてくれる。そして、彼の場合のように、そこから永遠に人生を変える出会い、人生の歩みをより良いものとする出会いが生まれることがある。

                               教皇フランシスコのお言葉

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