2021年11月30日火曜日

聖アンドレ使徒

 



 聖アンドレは聖書には余り多く書かれていない、だから皆に知られていないのかもしれない。

 兄のペテロに【私達は油注がれた者を見つけた】と告げ、洗礼者ヨハネが〖見るがよい、神の子羊だ〗と言うと後を着いて行き、主キリストに【どこにお泊りですか】と尋ね、その日の午後は神の子羊・キリストと一緒に過ごした、洗礼者ヨハネの弟子だったと言われている人。それが聖アンドレ。

 彼は聖ペテロの弟で兄と同じ漁師、ガリラヤ湖畔のカファルナウムに住んでいた。兄のペテロがもう良い年齢なので弟のアンドレもそれなりの年齢で、結婚していたと思う。ある日、兄のペテロとガリラヤ湖で漁をしていた時、主キリストに【私について来なさい】と召し出され、すぐに「はい」と答える心の準備が出来ていたのだろう。網と舟を置いて真っ直ぐに主の言葉に従い、その後に続いた聖人。聖書には多く書かれていないが、僅かな記述をもとに祈りの内に想像したり、思い起こしてアンドレという人物像を自分なりに考えることはとても好きなこと。

 まだ私が有期誓願期の頃、まるで映画を見ているように神・人であるイエズス様を感じることができたので夢中で読んでいたのはバルトルタ。その中でアンドレは、主に頼まれて静かな沈黙の内に、罪の女を経済的に、精神的に助けに行った。おしゃべりな兄や、噂好きの使徒達に何か一言言われれば真っ赤な顔をして下を向き、多くを語らず、黙って何も言えないアンドレ。物静かで一見はっきりしないようで、もちろん自分の意見を自分から言わない、しかし頼まれたことは適切に果たした。だから主は深く信頼し、秘密にしたい事はいつもアンドレに頼んだ。言いふらすことなく、何よりも優しい慈しみの心を持っているアンドレを、このようなデリケートな霊魂の救いのために主は選んだのだろう。最後の最後11月30日がお祝日だなんて、なんと謙遜だろうと私は思う。

 晩年、聖アンドレは遠くギリシャの方まで宣教し、そこで主とは違う型の十字架に掛けられ殉教した、そしてこの型の十字架は本人が望んだと言い伝えられている。主と同じではあまりにも自分に相応しくないと思うアンドレの謙遜の表れではないだろうか?(いざとなれば自己主張できるではないか、アンドレ!!!)想像の域を出ないが案外その通りだろう。この一見物静かで、しかし主への愛がその心に熱く燃えていたであろう、謙遜で頼もしい聖アンドレをもっと日本の教会でも知ってほししいと思うのは私だけだろうか?


2021年11月27日土曜日

待降節

 コロナ禍にもらず、1週間前位まではウエッブサイト上に山のハロウィンの宣がでていました。11月もすところ5日足らず。今度はクリスマスです。今では多くのイスラムにおいてもクリスマスをお祝いします。もちろん日本でもクリスマスツリにクリスマスケキ、そして、街にはクリスマス商。世界中の人が祝う宗行事、と言っても過言ではありません。


 キリストでは、クリスマスを迎える準備として、1130日に最も近い日曜日から4週間の「待降節」、ラテン語「Adventus」が始まります。「Adventus」の意味は、「到救い主キリストの到、キリストの到を準備する期間です。教会も、新年がこの待降節第一の日曜日から始まります。約聖書の時代から待ち望んでいた救い主を迎える喜び、これが待降節の意味することで、教会の飾り物もクリスマスの色喜びを表す赤を基調として使われます。それと、キリストを現す光ソクです。それを現すいちばんのものが、アドベントリス。16世紀にドイツで始まり、1930年にはアメリカ大陸へとえられました。現在では、カトリック、プロテスタントを問わずほとんどのキリスト教会で見ることができます。その形は丸い形をしています。これは、途切れることのない神の無限の愛を表します。材料は、「イエスキリストがもたらす救い、永遠の命への希望を示す」常樹(絶えずで枯れない)を使います。リスには、「キリストの降誕を通して世界にもたらされたキリストの光」の象として、4週間の間一本ずつ灯す4本のキャンドルが置かれます。この4本のキャンドルは、多くのと地域の教会統として、待降節第一週のキャンドルは、「キリストによってもたらされた希望のみ」を思い起こすのです。第2週は、「キリストがもたらされた平和」。 第3週は、「キリストとともにいることのできるよろこび」。 第4週は、「神そのものであるキリストの愛」を思い起こすのです。この期間は、「よろこび」「ひかり」であると同時に、キリストを迎えるのにふさわしく生活を改める期間でもあるので、典に使う色は「ムラサキ」悔い改めの色も使われます。








2021年10月20日水曜日

10月は「宣教の月」


 10月は「宣教の月」、そして今年は、10月24日(日)が「世界宣教の日」になっています。

 今年の「世界宣教の日」教皇様のメッセージのテーマは、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒言行録420)となっています。

 神の愛の力を経験したとき、個人や共同体の生活の中で御父の存在に気づかされたとき、わたしたちは、見たことや聞いたことを告げ、分かち合わずにはいられません。

 今日イエスは、世界の周縁部へと出向かせ、いつくしみの使者、あわれみの道具とする、真の愛の物語として自らの召命を生きようとする心を必要としています。そしてこれこそが、方法は異なれども、主がわたしたち全員に向けて行なっている呼びかけです。周縁部は、わたしたちの近くに、都市のただ中に、家庭の中にもあることを忘れてはなりません。とりわけこのパンデミックの時代には、 私たちは、近くにいるのにもともと仲間として関心を持たない人々に届くように友人の輪を広げていく、日々の努力が必要なのです。宣教を生きるということは、キリスト・イエスと同じ感覚を持つ覚悟をすることであり、主によって、そばにいる人はだれであれ、自分の兄弟姉妹であると信じることです。主のあわれみの愛がわたしたちの心をも目覚めさせ、わたしたち皆を宣教する弟子にしてくださいますように。

  そして、今年2021年10月23日は、本会の来日70周年記念の日にあたります。

「世界宣教の日」教皇メッセージ


2021年10月16日土曜日

「キリスト者の召命の宣教的側面」について

 


神の声に引き寄せられ、イエスに従う道を歩む人々は、宣教と愛の奉仕を通して兄弟姉妹に福音を伝えたいという、抑えられない願望を自らの内に容易に見いだします。すべてのキリスト者は福音宣教者とされています。

 このように宣教という使命は、キリスト者の生活に飾りのように付け加えられるものではなく、信仰そのものの核心です。主との結びつきには、みことばを告げる預言者として、また神の愛のあかし人として世界に派遣されることが伴います。 

この世で、目に見えるイエズスの使命はもう終わりました。主の役目はもう終わったのですが便にこの世の終わりまで御聖体の内に残り、そこからは、主のように善を行いながらこの世を通り過ぎたいと思ぅ人々にとって促進者、援助者、支持者、導き手となられたのです。(福者マドレ・マリア・イネス)

 すべての宣教する弟子は、「よいわざを行い、すべての人をいやした」(使徒言行録1038参照)イエスと同じように、人々のもとに「出向く」よう招く神の声を心の中で聞きます。すべてのキリスト者は、洗礼の恵みによって兄弟姉妹に「キリストを運ぶ人」になると、(一般謁見講話、2016130日参照)。このことは、奉献生活や司祭職に招かれ、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と進んでこたえた人々にとりわけ当てはまります。

主は始められた仕事を続けるためにあなたを選ばれたのです。それは[キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けている所を、あなたの身で補うためです](コロサイ、124 参照) (福者マドレ・マリア・イネス)

わたしは、とりわけ司祭職と奉献生活への新たな召命を神に願い求めるためにも、主とのこの深い友情を生きるよう皆さんを強く励まします。とりわけ若者に対してキリストに従うよう説き、提案する情熱を、わたしたちは今も取り戻すことができます。

 救い主の母、至聖なるマリアは、自らの若さと情熱をみ手にゆだね、神に対して同じ夢を抱く勇気をもっておられました。マリアの取り次ぎによって、マリアのように開かれた心、主の呼びかけに「はい。わたしはここにおります」と答える心構え、そして全世界に主を告げ知らせるためにマリアのように出向く(ルカ139参照)喜びがわたしたちに与えられますように。

 20161127日教皇フランシスコメッセージからの抜粋と福者マドレ・マリア・イネス

2021年9月22日水曜日

キリストは生きている


召命

 人間は誰も一つの召命を持って生まれてきます。人は、人生の途上で必ず、自分に与えられたその召命を選択しなければなりません。


 あなたの召命は、単純に、あなたの果たすべき職務もちろんそれによって表されるものですが|だけで成るものではありません。それ以上のものです。多くの努力や数々の行為を、仕えることへと向かわせる道筋なのです。だから召命の識別において重要なのは、社会に対するそうした具体的な泰仕に必要な資質が、自分にあると気づけるかどうかです。
 それにより、そのような任務にはとても大きな意義が生じるのです。それらが、お金を稼ぐため、無為に過ごさないため、他者を喜ばせるためといった、もろもろの行為の積み重ねであることをやめるからです。わたしたちは呼ばれたのだから、そうしたことすべてが召になるのであり、そこにはわたしたちの実用的な選択以上のものがあるのです。究硫的には、なぜ自分が造られたのか、この地上で何をして過ごすのか、わたしの人生に主が望むものは何かを、知るということです。 主はわたしに、場所や時や詳細を、すべて伝えてはくださいません。 それらはわたしが賢明に選択するものです。 ただし、主はわたしの創造主、わたしの陶工であられるのですから、わたしに示してくださる人生の指針があるはずで、わたしは、主によって形成され、主に導かれるために、その声に耳を傾けなければなりません。それができれば、わたしはなるべき自分になり、自分に固有の現実に対してまっすぐに向き合えるでしょう。

                       教皇フランシスコ  使徒的勧告 「キリストは生きている」より








2021年9月7日火曜日

マリアの誕生 祝日

 教会は毎年9月8日に聖母マリアの誕生の日をお祝います。 福音書にマリアの誕生についての情報は書かれていませんが、教会で伝統があります。

 聖母マリアの誕生の祝日のお祝いは、6世紀から東部で知られています。 それは、ビザンチンの典礼の年が始まり、9月8日に設定されました。 西洋では、7世紀頃に導入され、行列の連祷で祝われ、サンタマリアラマヨール大聖堂で終わりました。

 マリア的である宣教クララ修道会でも毎年、Niña Maria(幼きマリア)の像を飾って荘厳しお祝います。👇 この写真は群馬県大泉修道院の聖堂です。

また、今年はマリア様への贈り物として、こいずみ ゆりさんの「マリア様の手を握り」の歌を歌って、ビデオ作りました。母であるマリア様といつも一緒!Vamos Maria!