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2021年9月22日水曜日

キリストは生きている


召命

 人間は誰も一つの召命を持って生まれてきます。人は、人生の途上で必ず、自分に与えられたその召命を選択しなければなりません。


 あなたの召命は、単純に、あなたの果たすべき職務もちろんそれによって表されるものですが|だけで成るものではありません。それ以上のものです。多くの努力や数々の行為を、仕えることへと向かわせる道筋なのです。だから召命の識別において重要なのは、社会に対するそうした具体的な泰仕に必要な資質が、自分にあると気づけるかどうかです。
 それにより、そのような任務にはとても大きな意義が生じるのです。それらが、お金を稼ぐため、無為に過ごさないため、他者を喜ばせるためといった、もろもろの行為の積み重ねであることをやめるからです。わたしたちは呼ばれたのだから、そうしたことすべてが召になるのであり、そこにはわたしたちの実用的な選択以上のものがあるのです。究硫的には、なぜ自分が造られたのか、この地上で何をして過ごすのか、わたしの人生に主が望むものは何かを、知るということです。 主はわたしに、場所や時や詳細を、すべて伝えてはくださいません。 それらはわたしが賢明に選択するものです。 ただし、主はわたしの創造主、わたしの陶工であられるのですから、わたしに示してくださる人生の指針があるはずで、わたしは、主によって形成され、主に導かれるために、その声に耳を傾けなければなりません。それができれば、わたしはなるべき自分になり、自分に固有の現実に対してまっすぐに向き合えるでしょう。

                       教皇フランシスコ  使徒的勧告 「キリストは生きている」より








2014年9月21日日曜日

「ホットひと息」   「恵みに生かされて」



ホットひと息」   「恵みに生かされて」

シスターK



私にとって神様との決定的な出会いはひとつの病気を通してでした。

プロテスタントの家庭で育ち、幼い頃から祈ること、日曜日は教会に行く日として当然のことのようにして過ごしてきた信仰生活も、社会人として歩み始めた頃には、生かされていることよりも生きている喜びを満喫し、自己満足の中で信仰をアクセサリーとしていたように思い出されます。     
  

突然のひどい吐血に入院という苦しみを通して、また一ヶ月の面会謝絶の孤独の中で、愛すること、信じること、生きることを問われたのです。空しさと惨めさを味わいながら過ごしました。それからの日々はただ静かに祈りたい!との思いがつのるばかりで、このままでいいのかとあせりが心を覆いました。ある日の夕方、勇気を与えられてカトリック教会を訪れました。温かく迎えて下さったカテキスタの方が、夕ミサが始まることを教えて下さり、緊張のうちに聖堂に入りました。「ミサ」については何も知らない私です。

いきなり「主よ、あわれみたまえ」と祈りの声が耳に響いてきました。回心の祈りです。感動しました。まさに探し求めていた祈りでした。こんな人間を許し、生かしてくださっている、ありのまま受け入れて下さる神様の愛、神様の存在。回心の祈り、許しによって深められていく「ミサ」。嬉しさと解放感で涙が流れてとまらなかったことを覚えています。素晴らしい恵みでした。その翌日から朝六時半のミサに毎日通うようになりました。御聖体拝領なさるシスターの姿を眺めながらうらやましさとこれからの道への思いをめぐらしておりました。



改宗して一年すぎた夏、カトリック新聞を通して宣教クララ会企画の研究会を知りました。テーマ「私の道は・・・結婚?独身?修道生活?」に待っていましたとばかりに参加を申し込み、軽井沢の修道院に行きました。数年前アフリカで亡くなられたフランシスコ会のコンラド神父様との出会い、明るく喜んで奉仕しておられたシスター方との出会いによって修道召命の確信を与えられたのです。全て恵みです。日本に百近くあると言われている女子修道会の中で一つの会に出会うことはやはり神秘です。


宣教クララ会は創立者の望みに従って「喜び」「単純」「マリア的」「聖体的」霊性を祈りと典礼生活、共同生活を通して生きようとしてきます。これからも日々新しい心で、主の道を整え、その道筋をまっすぐにする為に頂いていますいのち、修道召命の恵みを感謝し、いきいきと主の愛に応えていくものとなりますように。