2020年11月25日水曜日

 

ミサ説教(すべてのいのちを守るため)
東京ドーム、11月25日 
 ローマ教皇「人類が直面する課題、最初の一歩は勇気ある重大な決断」[写真特集10/14]- 毎日新聞

 今聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。「山上の説教」と呼ばれているもので、わたしたちが歩むよう招かれている道の美しさを説いています。聖書によれば、山は、神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。神はモーセに、「わたしのもとへ登りなさい」(出エジプト24・1参照)と仰せになりました。その山頂には、主意主義によっても、「出世主義」によっても到達できません。分かれ道において、師なるかたに、注意深く、忍耐をもって丁寧に聞くことによってのみ到達できるのです。山頂は平らになり、周りがすべて見渡せるようになり、そこはたえず新たな展望を、御父のあわれみを中心とする展望を与えてくれるのです。イエスにこそ、人間とは何かの極みがあり、わたしたちの考えをことごとく凌駕する充満に至る道が示されています。イエスにおいてわたしたちは、自分たちは神の子どもだと知って自由を味わう、新たないのちを見いだすのです。
 しかし、わたしたちはこの道において、子としての自由が抑え込まれ弱まるときがあることを知っています。それは、不安と競争心という悪循環に陥るときです。あるいは、息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐときです。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々にわたしたちを無関心、無感覚にし、表面的ではかないことがらに胸がときめくように仕向けるのです。何でも生産でき、すべてを支配でき、すべてを操れると思い込む熱狂が、どれほど心を抑圧し、縛りつけることでしょう。
 ここ日本は、経済的には高度に発展した社会ですが、今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりがだれかを支え、助ける場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです。
 力づける香油のごとく、主のことばが鳴り響きます。思い煩うことなく信頼しなさい、と。主は三度にわたって繰り返して仰せになります。自分のいのちのことで思い悩むな、……明日のことまで思い悩むな(マタイ6・25、31、34参照)。これは、周りで起きていることに関心をもつなといっているのでも、自分の務めや日々の責任に対していい加減でいなさいといっているのでもありません。それよりも、意味のあるより広い展望に心を開くことを優先して、そこに主と同じ方向に目を向けるための余地を作りなさいという励ましなのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6・33)。
 主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。この世での己の利益や利潤のみを追い求める世俗の姿勢と、個人の幸せを主張する利己主義は、実に巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします。そのうえ、真に調和のある人間的な社会の発展を阻むのです。
 孤立し、閉ざされ、息ができずにいる「わたし」に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる「わたしたち」、これしかありません(「一般謁見講話(2019年2月13日)」参照)。主のこの招きは、わたしたちに次のことを思い出させてくれます。「必要なのは、「わたしたちの現実は与えられたものであり、この自由でさえも恵みとして受け取ったものだということを、歓喜のうちに認めることです。それは今日の、自分のものは自力で獲得するとか、自らの発意と自由意志の結果だと思い込む世界では難しいことです」」(使徒的勧告『喜びに喜べ』55)。それゆえ、第一朗読において、聖書はわたしたちに思い起こさせます。いのちと美に満ちているこの世界は、何よりも、わたしたちに先立って存在される創造主からの、すばらしい贈り物であることを。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(創世記1・31)。与えられた美と善は、それを分かち合い、他者に差し出すためのものです。わたしたちはこの世界の主人でも所有者でもなく、創造主と同じ夢にあずかる者なのです。「わたしたちが、自分たち自身のいのちを真に気遣い、自然とのかかわりをも真に気遣うことは、友愛、正義、他者への誠実と不可分の関係にある」(回勅『ラウダート・シ』70)のです。
 この現実を前に、キリスト者の共同体として、わたしたちは、すべてのいのちを守り、知恵と勇気をもってあかしするよう招かれています。感謝、思いやり、寛大さ、ただ聞くこと、それらを特徴とする姿勢を、いのちをそのままに抱きしめ受け入れる姿勢を、あかしするようにと。「そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさをもすべてそのまま」(「ワールドユースデー・パナマ大会の前晩の祈りでの講話(2019年1月26日)」)引き受けるのです。わたしたちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています。つまり、「完全でなく、純粋でもなく、純化されていなくても、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。障害をもつ人や弱い人は、愛するに値しないのですか。よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか。イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされたのです」(同)。
 いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です。
 主に結ばれて、善意あるすべての人と、また、異なる宗教を信じる人々と、協力と対話を欠かさずにいたならば、わたしたちは、すべてのいのちを、よりいっそう守り世話する、社会の預言的パン種となれるでしょう。

                           カトリック中央協議会より

2020年11月9日月曜日

 

「毎日が神様からのプレゼント」

 

シスターマグダレナ小崎

 

皆さんは、自分の人生を振り返ったことがありますか?

私は、今年誓願25周年という恵みの年にあたり、今までの人生・特に修道生活を振り返ることができました。自分の至らなさにも沢山気づかされましたが、それにも増して、神様のいつくしみ深さに驚かされました。なぜなら、こんな私が、今もここにいること自体が、本当に不思議(奇跡?)だと思うからです。入会する前のこと、シスター以外の道を探して、ずいぶん遠回りをした私は、本会の黙想会で、礼拝中にイエス様のいつくしみのまなざしと出会ったのです。こんな私を?ずっと待っていてくれたイエス様、私は放蕩娘のように泣きました。その翌年に、修道会に入会。しかし、入会したものの、修道生活がどんなものなのか、創立者のことも、グァダルペの聖母のことも知りませんでした。少しずつ養成され、今では、この生活しかないと考えるようになりました。

毎月22日に、創立者の遺言書を共同体で読んでいます。その時その時に、心に響く言葉が違いますが、今年創立者が私に語りかけた言葉は、「神のあわれみと娘たちの努力によってみなが同じ精神と聖性への熱意を持ち、主からの一つひとつの痛みと喜び、苦しみなどの機会を全部利用しながら、神の栄光のために天の国に多くの人を導きたいと言う望みを持っています。この共同体をあなた方に託します。」私はハッと気づかされました。その日・その時・各瞬間のすべてが、神様からの贈り物だったのですね。私はこの25年の間に、神様が下さった宝(恵み)をずいぶん無駄にしてしまったと反省しています。(神様ごめんなさい!)

これも創立者の言葉ですが、「毎日始める」ことを勧めて下さっています。誓願をたてて25年たった今、やっと気づかされた私ですが、今日からまた新たに始めたいと思います。神様から与えられた命を毎日少しずつ神様にお返ししながら、ここに呼んでくださったことに、いつも感謝して生きたいと思います。神様に感謝!イエス様に感謝!マリア様に感謝!修道会に感謝!そして一人一人のシスターに感謝したいと思います♡













2020年11月2日月曜日

死者の日です。

 

2020112

死者の日

 

 今日、死者の日を記念する私たちは、世を去った私たちの愛する人々に敬意を表し、多くの文化において、亡き家族や友人を思い出し、彼らの為に祈ることに今日一日を捧げます。

 私たちの会の創立者、そして私自身が生まれ育ったメキシコでは、死者の日」は国中でお祝いされる大切な日です。その、伝統的かつユニークなメキシコの「死者の日」の過ごし方を  紹介したいと思います。

 11月1日の死者の日が近づくと、メキシコ中に“ドクロ”(骸骨)があふれ  出します。ほとんどが手作りなので、作った数だけ種類があります。お菓子屋やケーキ屋のショーウインドーには、 砂糖で固めたドクロが、みな色とりどりの化粧をして、道行く人を楽しませます。パン屋には、「死者のパン」という茶褐色の大小とりどりのパンが並びます。各家々には、色鮮やかにして奇抜、装飾に凝った「オフレンダ」という祭壇が設けられます。そこには、選ばれた   一人の亡くなった家族の写真が飾られます。また、その人が生きている間に  好きだった食べ物、好きだった服、お祈りの時に使っていた聖書やロザリオ、 十字架など、大事にしていたものを写真の前に置きます。家族は、その祭を囲んで、その家族の永遠の安息を願い、また、 思い出話に花を咲かせるのです。 

 イエスは亡くなられ、死者のうちから復活されたので、皆が天国に行く希望があることを私たちは信じます。ですから、今日、家族や友人だけでなく全ての死者、特に神様を知らずに 亡くなった人々の為にお祈りしましょう。神は、天国の喜びの中に、あなたとあなたの愛する全ての人を連れて行きたいと望んでおられるのです。


 メキシコで死者の日に作った祭壇です。
                            


                              
菊の花を死者の日に使います。








死者のパンと言います。