2024年3月25日月曜日

シスターの俳句 「春」「薫風」

「わが故郷(こきょう)春は短し軽井沢」

季語 「春」

(鑑賞)作者の故郷は長野市である。ここでは心の故郷の軽井沢を詠んでいる。修道生活を始めたころ、彼女は軽井沢に住んでいたことがあった。今も4月ごろに時々雪が降ることがある。彼女の時代にはもっと長く厳しい冬だっただろう。4月末から5月にかけて花が一斉に咲く。その後梅雨があり暑い夏もある。彼女は自分の人生を重ねていたのだろうか。今は病床の身である自分にも短い春があった。しかし60年たった彼女の心には、しっかりと深く刻まれた暖かな記憶として残っていたのである。今は天の故郷でとこしえの春を神様と共に過ごしていることだろう。



「祖母の手をとり薫風の善光寺」

季語 「薫風(くんぷう)」…風薫るの傍題

(鑑賞)これは夏の季語だが、彼女の故郷の句なのでこれを紹介したい。私も善光寺に行ったが、境内から本堂の階段は思いのほか高い。思わず人の手を借りたいほどだ。優しい彼女は祖母の手を取り、階段を上り下りしたのだろう。この句は下りる時か。本堂から境内へ下りる時、緑のなんとも言い難い風が頬に触れた。すがすがしく心地よい風だ。彼女と祖母もこのように心が通い合った関係だったのかも知れない。優しい風が心を吹き抜けていく。

2024年3月16日土曜日

シスターの俳句


「小鳥達 いかなる味ぞ 春の水

 (鑑賞)水溜まりでしょうか。小鳥たちが次々と水を飲みに来ます。小枝で遊んでは、また飲みに。何度も何度も飲みに来る小鳥たちを見ていると、作者もその水を飲んでみたい気持ちになりました。春の水はきっと心まで温かくしてくれるのでしょうね。 


「幾千の桜一輪手にとって」  

 (鑑賞)満開の桜を眺めていると、ひとひらの花びらが手に落ちてきました。なんて愛らしいのでしょう! 作者の優しい思いが感じられます。


 この俳句は宣教クララ会のシスターコンスエロ服部が書いたものです。


 御聖体の宣教クララ修道会は1951年6月22日にメキシコで創立され、同年10月23日に早くも日本に4人の宣教女が派遣されました。そして、約1年後の1952年10月26日に2人の日本人が入会しました。シスターコンスエロ服部美津枝は、その一人です。


 シスター服部は、修道生活を望んで修道会を探していましたが、出身教会の司祭の紹介で宣教クララ会を訪問し、そのまま入会したそうです。言葉も通じない中、辞書を片手に何とかコミュニケーションをとったそうです。日本に来たばかりの修道会はとても貧しく、体の弱いシスター服部には、色々な困難もあり、退会を考えたこともありました。

 ご両親も心配して、何度も連れ戻そうとしたようです。しかし、日本に訪問した創立者に出会った時、創立者の人柄に魅せられ、修道召命は固まっていきました。修道会の日本での基礎を作る役割を担い、その後1970年にローマに派遣されました。


 1988年に帰国し、2019年1月22日帰天するまで、再び日本での役割を誠実に果たし、晩年は長年にわたり病床にあり信仰と忍耐の模範を日本の会員に与えてくれました。病床にあったシスター服部の俳句をこれから徐々に紹介したいと思います。

2024年2月23日金曜日

希望の火を守り続ける

 

主の奉献の祝日


     教皇フランシスコは2日、聖ペトロ大聖堂で「世界奉献生活の日」のミサを捧げられ、世界中から集まった男女修道会の代表たち、そしてすべての男女修道者に対して、「聖霊によって動かされることに常に心を開き、福音に従って神への切望に改めて目覚める習慣を育てるように」と促された。

 教皇はミサ中の説教で、「内なる生活を守り、福音に従って、命の光と希望であるイエスを抱く」ことで、「辛抱強く、心の警戒を怠らず、粘り強く祈りながら待ちなさい」と呼びかけられた。

 


*警戒と忍耐

  そして、預言者マラキによって告げられた主の到来の預言的な予感、つまり「あなたがたが求めている主は突然、その神殿に来られる。あなたがたが喜びとしている契約の使者が、まさに来ようとしている」(旧約・マラキ書3章1節参照)を振り返りながら、聖霊によって啓発され、神を認識するシメオンとアンナの姿に注意を向けられた。

 「主は、マリアが神殿に入るときに腕に抱いている子供のようです。シメオンとアンナという高齢者夫婦が辛抱強く待ち、霊的な警戒を怠らず、粘り強く祈り続けていた姿を観想するのは、私たちにとって良いことです。 彼らの心は永遠の炎のように、目覚めたまま。歳は取っていても、心は若いのです」と強調。

 「シメオンとアンナが希望の炎を守り続ける力は、気を散らすものに満ちた今の世界で、期待を込めて神に目を留め続けるようキリスト教徒に教えています。人生の旅路の中で、彼らは困難や失望を経験しましたが、敗北に屈しませんでした」と指摘された教皇は、「彼らはその子を見つめながら、時が来たこと、預言が成就したこと、唯一の神がおいでになったことを知ったのです。自分たちが切望していたメシアが到来したのです」と説かれた。

 さらに教皇は、「主を待ち望み、目を覚ましていることで、彼らは主の到来を歓びをもって迎えることができる」と強調される一方で、自分自身のことにとらわれ過ぎ、日常生活の忙しさに追われ、神の絶え間ない臨在を認識できないようになりかねない、キリスト教徒の現状に懸念を示された。

 そうすることは「 魂を麻痺させ、失望と諦めの暗い隅に希望を閉じ込めてしまう」とされ、「心が眠ってしまわないように」と警告された。そして、「激しい生活リズムのせいで、心を開いて神の啓示と臨在を待ち望むことの重要性を忘れてしまっていないか、自問するように」と勧められた。

 

*待つことに障害となるもの

  教皇は続けて、「待つ」ことの障害となるものを2つ挙げられた。

  1つ目は「内なる生活の軽視」であり、それによって「疲労」が「驚き」に取って代わり、「苦い思い」が「感謝」の影を覆い隠してしまう、と指摘。 2 つ目は、「スピード、行動主義、目先の満足の追求を特徴とする世俗的なライフスタイルに適応すること」とされた。

 そして、「このような今の世界の状況、異教の時代において、『待つ』ことは、スピードを緩める強い意志が必要になる。『沈黙』が失われたところで『待つ』ことは容易ではありません。なぜなら、それには健全な受動的な姿勢、自分のペースを緩める勇気、活動に圧倒されない勇気、神の行動のために自分の中に余地を作る勇気が求められるからです」と説かれた。

  また「待つ」ためには、「失われた恩寵を取り戻すこと、つまり、熱烈な『内なる生活』を通じて、礼拝と祈りと聖霊によって養われる、喜びに満ちた謙虚さ、沈黙の感謝の精神に戻ることが必要です。神への憧れが再び目覚めるように」と語られた。

  教皇は続けて、「世俗の精神が、私たちの教会共同体、教会生活、そして私たちの個人的な歩みに入ってこないようにしなければ、私たちが実を結ぶことはありません」と注意され、「待つ」精神を養うよう呼びかけ、 「祈りと日々の(主に対する)忠実さによって成熟することで、『待つ』ことは、私たちを『効率性の神話』『人目に付く行為への強迫観念』、そして何よりも『神を pigeonholing(棚上げする)』振る舞いから解放します。なぜなら神は常に予測できない方法で、私たちが選ぶか、選ばないかに関係なく、お現われになるからです」と説かれた。

 最後に教皇は、「 シメオンに倣い、私たちも、新しさと驚きの神である御子を迎えに行きましょう。 主を迎えることで、過去は未来に開かれ、私たちの中にある古いものが、主が目覚めさせた新しいものに向かって開かれるのです」とされ、 「私たちも休むことなく、シメオンとアンナのように、聖霊によって動かされましょう。 彼らのように、未来に期待を持って生き、内面の生活を守り、福音に従って生きるなら、私たちは人生の光であり希望であるイエスを抱くことができるでしょう」と語られて説教を締めくくられた。

2024年2月2日金曜日

これは何ですか

 

世界奉献生活の日

World Day for Consecrated Life(世界奉献生の日)は、1997年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって制定され、毎年2月2日に祝われます。

この日は、全教会が「福音的勧告」の実践をとおしてキリストに従うことを選んだ人々のあかしをもっとよく認め、また聖別された人にとっては、自分たちの奉献を新たにし、主への献身の力の源である熱心さの炎をいっそう燃やすための機会となることを意図しています。

教皇はこの日を制定した目的を3つのべておられます。

  1. 聖別奉献生活という賜物を与えてくださった主を賛美し、感謝すること
  2. すべての人が聖別奉献生活の価値をよりよく知るようになること
  3. 奉献生活された人たちが、主が与えてくださった業のために共に集まり、祝うこと

キリスト教マメ知識女子パウロ会より)



これから、わたしたちもこの日、奉献生活者のために祈りましょう、今年の教皇フランシスコのメッセージを分かち合いたいと思っています。ぜひブログをご覧ください。




2024年1月15日月曜日

「神様は、一人一人の人生の歩みを導いて下さいます」 (その②)



 その後幼稚園教諭の資格もとって実家近くの教会の幼稚園に務めました。幼児教育という素晴らしい場で、先生方とも気が合い、信者としても充実した喜びの日々を過ごしていましたがある時、ふとしたことから先生方の気持ちに亀裂が入り全く気持ちが離れてしまってほとんど話もしないような気まずい関係になってしまいました。そのようになった時、初めて人間同志の関わりのはかなさを痛感し、ずっと以前、前の町で教会に行く前に感じていた“変わらないもの永遠なるもの”はないのかともう一度考えるようになった時、お世話になったシスターの姿を思い出しました。「そうなんだ、シスター方は永遠なるものを求めて神様に自分の生涯を捧げていらっしゃるんだ」そしてその道について知りたいと思いましたが、どこの誰に聞いたらいいか分からず迷って居ました。その頃、教会に大きな行事がありその日、私の前に二人のシスターの姿がありました。驚いて尋ねましたら「御聖体の宣教クララ修道会」とのこと、私の修道者への道はここから開かれた訳です。
 入会希望のことを主任神父様に話したら「あの修道会は日本に来てまだ日が浅く、生活も安定していない様だし将来も分らないようだから、もっと歴史があって事業(大きな学校とか施設)などをしていて安定している修道会に入った方がいいのではないか」と勧めて下さいましたが、私は「いいんです、貧しくても安定していなくてもあの修道会に行きます」と言ったように記憶しています。そしてその春、3月25日マリア様のお告げの祭日に中軽井沢の修道院の門を入りました。まだ寒いでした。 
 一年間の志願期、二年間の修練期を経て初誓願のお恵みをいただいて、今、約60年の歳月が過ぎました。その間、世界中でも、日本の国としても、カトッリック教会としても、修道会としても、個人としてもさまざまなことがありました。私個人としては、各所の幼稚園と、教会でのミッション関係の仕事が主でした。修道者としての生活を細かく書いていくときりがありませんが、どの一つをとっても太字で書かなければならないようなことが沢山ありました。その時々に丁度良い道を、また思ってもいない道を、神様が用意してくださったからとしか思えないこと、それは日々の歩みの中でも、大きな出来事の中でも、その時々に丁度良く全て順調でした。私の祈りはいつも感謝しかありませんでした。“神様!!丁度良い時に、丁度良いお恵みをありがとうございます!!”とそしてその祈りは今も続いています。
 このように神様は、私達一人ひとりに歩かせたい道を考えていらっしゃって、その時その時に必要な恵をくださりながら導いて下さると言うことを、絶対的な確信をもって申し上げることが出来ます。皆さんもどうぞ、神様への全き信頼のうちに、ご自分の道を進まれますよう心からお祈り申し上げます。

2024年1月1日月曜日

令和6年元旦

 

 皆様、新年おめでとうございます。

  今年もよろしくお願いいたします


  いつもご覧いただきありがとうございます。これらも励んで参ります。
 一人ひとりの皆様とご家族の上に、神様の豊かな祝福とお恵みが限りなくありますよう、心よりお祈りを申し上げます。



                        御聖体の宣教クララ修道会大泉修道院

2023年12月12日火曜日

奇跡のバラ

 

グァダルペの聖母


今年もグァダルペのマリア様の祝日の
1212日が近づいてきました。私たちの母であるマリア様に孝愛と信心を表わすためにも、マリア様がどのようにご出現されたかを思い出してみましょう。

今から492年前、1531年にさかのぼります。当時メキシコの地は、スペインによる征服によってアステカ王朝が滅び、その後宣教師が派遣されてキリスト教が普及し、多くの人々が受洗の恵みにあずかりました。そのなかに、ホワンディエゴと呼ばれる一人のインディオが、現在のメキシコにすんでいました。彼は非常に信心深くいつも教会に通っていました。

129日、その日も早朝ミサにあずかるためにテペヤックという丘のふもとに来た時、美しい音色と小鳥のさえずりが聞こえ、それと同時にホワニートと自分に呼びかける声が聞こえてきました。急いで丘の上に上ると、サボテンの生えた岩山の中に光が射し、虹の形の雲の上に美しい婦人が見えたのです。彼女は、自分がおとめマリアであることを告げて、自分のメッセージをメキシコの司教様に伝えるように頼みました。それは、この地に聖堂を立ててほしいこと、その聖堂ですべての人を愛し助け保護したいこと、ご自分が慈しみに満ちた母であること、聖母を愛するすべての人、聖母に信頼を寄せるすべての人の嘆き、痛み、苦しみを癒し和らげて下さりたいこと・・・。しかし、ホワンディエゴが喜々として司教様に伝えたメッセージは、信じてもらえませんでした。

その日の午後、再び聖母にお会いしたホワンディエゴは、自分はふさわしくない、小さな踏みつけられる虫けらのようなもの、もっと尊敬される人に頼んでほしいと願ったのでした。聖母は、ご自分の望みを果たせないことで落ち込んでいる彼を励ましながら、聖堂が建てられるためには、使者としての彼が必要であることを告げ、もう一度司教様のもとに送り出したのです。

 

1210日、ディエゴは再び司教様にお会いし、聖母の強いお望みを誠実、純朴そのままに伝えたのです。司教様はその誠意に打たれ、そのお方が確かに聖母マリア様であるとのしるしを頂いてくるように命じられました。その日の夕方、聖母はテペヤックの丘で待っておられました。ホワンディエゴが、司教様の依頼を伝えると、明日、その証拠の品を用意するのでまたここに来るようにとおっしゃられ、ディエゴは安心して家路につきました。

ところが翌日、同居していた病気の叔父の体調が悪くなり、聖母が用意して下さるものを貰いに行くことができなかったのです。

 

1212日、ホワンディエゴはマリア様に会わないように別の道を通って司祭を迎えに行こうとしたのですが、マリア様がその道で待っておられ、病気のことは何も心配せずに、ご自分にまかせるようにとさとし、そして最初に出会った場所に上り、そこに咲いているいろいろな種類の花を切り取って私のもとに持ってくるようにと言われたのです。ディエゴが行ってみると、花などなにもないはずの岩山に、色とりどりの美しいバラの花が咲いていました。ディエゴはそれらのバラを切り取り、自分の着ていたインディオたちがよく着用するマントに入れて、マリア様に届けると、マリア様はバラを受け取り、そのままディエゴのマントに戻して、このバラを証拠の品として司教様に届けるように、そして聖堂を建てるように言われたのです。

 


ホワンディエゴが司教様の前で、マリア様からのしるしをお見せすると、バラの花がマントからこぼれ落ちた瞬間、司教様はその場にひざまずきました。なぜなら彼が来ていたマントにはマリア様のお姿がくっきりとそして美しく映し出されていたからです。それは人の手で描かれたものではなく、マリア様ご自身による奇跡的なお姿のでした。

 

ご出現から500年を迎えようとする今世紀にまで、マリア様のお姿は色あせることなく、その美しさと母のまなざしの優しさをとどめ、合わされた両手の中にすべての人を包み込み、御父に、御子キリストに祈り続けていらっしゃるのです。

母であるマリア様に敬愛を込めて心の花束をささげましょう。私たちの日々の歩みをいつも見守ってくださいますように。