2026年1月30日金曜日

愛の素晴らしいさ

 2026年「第34回世界病者の日」教皇メッセージ

サマリア人のあわれみ――他者の苦しみを担うことで愛する



 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 第34回「世界病者の日」は2026年2月11日にペルーのチクラヨで荘厳に祝われます。わたしはこの機会に、病者をはじめとした困窮する人々、苦しむ人々に注意を向けるために、よいサマリア人の姿をあらためて提示したいと望みました。それは、愛のすばらしさとあわれみの社会的次元を再発見することにおいて、つねに現代的意味をもち、必要とされるからです。

 わたしたちのだれもが、聖ルカによる感動的な箇所を耳にするか、読んだことがあります(ルカ10・25-37参照)。わたしたちが愛さなければならない隣人とはだれかと質問したある律法学者に対して、イエスは一つの物語を語ることによって答えます。エルサレムからエリコに向かって旅をしていた人が追いはぎに襲われ、瀕死の状態にされました。祭司とレビ人は道の向こう側を通って行きましたが、あるサマリア人は彼をあわれに思い、傷に包帯をして、宿屋に連れて行き、治療費を払いました。わたしは、敬愛すべき前任者である教皇フランシスコの回勅『兄弟の皆さん』を解釈の鍵として、この聖書箇所について考察したいと思います。この回勅の中で、困窮する人に対する思いやりとあわれみは、単なる個人的な努力にとどまらず、さまざまな関係の中で実現されます。すなわち、困窮する兄弟との関係、彼らを世話する人々との関係、わたしたちにご自身の愛を与えてくださる神との関係です。

1.出会いのたまもの――近しさと寄り添いを与える喜び

 わたしたちはスピードと即時性と性急さの文化の中に浸されていますが、同時に、使い捨てと無関心の文化の中にも浸されています。そのため、周囲にある必要と苦しみに目を向けるために近づき、途中で立ち止まることができません。このたとえ話は、サマリア人が傷ついた人を見たとき、「道の向こう側を通る」ことなく、その人に対して開かれた注意深いまなざしを、すなわちイエスのまなざしを向けたと語ります。このまなざしが、サマリア人を人間的な連帯をもって寄り添わせました。サマリア人は「足を止め近づいて、自ら手当てをし、懐を痛めて世話しました。この人は何よりも、〔……〕自分の時間を差し出したのです」(1)。イエスは、隣人とはだれなのかを教えるのではなく、どのように隣人になるのか、すなわち、どのようにわたしたち自身が寄り添うのかを教えます(2)。わたしたちはこのことに関して、聖アウグスティヌスとともに次のようにいうことができます。主が教えたかったのは、だれがこの人の隣人であるかではなく、人がだれの隣人にならなければならないかということでした。実際、進んで人に近づかなければ、だれも隣人にはなれません。だから、あわれみを示した人が隣人となったのです(3)

 愛は受け身のものではありません。愛は他者へと向かいます。隣人であることは、身体的・社会的に近づくことによるのではなく、愛する決断によります。だからキリスト者は、傷ついた人類に近づいてくださった神なるまことのサマリア人、キリストの模範に従って、苦しむ人々の隣人となるのです。それは単なる博愛的な行為ではなく、他者の苦しみに個人的にあずかることは自分自身を与えることだということをそこから感じ取らせてくれるしるしです。それは、わたしたちの人格がたまものの一部となるために、必要を満たす以上のことをすることです(4)。この愛は、必然的に、愛するためにわたしたちにご自身を与えてくださったキリストとの出会いによってはぐくまれます。聖フランシスコはハンセン病患者との出会いについて語りながら、次のように述べて、このことをきわめてすばらしいかたちで説明しました。「主ご自身がわたしを彼らの中に導き給うた」(5)。なぜなら、聖フランシスコは彼らを通して愛することの甘美な喜びを見いだしたからです。

 出会いのたまものはイエス・キリストとのきずなから生まれます。わたしたちはこのかたを、わたしたちに永遠の救いをもたらし、わたしたちが傷ついた兄弟に身をかがめるときに仰ぎ見る、よいサマリア人と考えます。聖アンブロジオは次のように述べます。「それゆえ、わたしたちの傷をいやしてくださったかた以上にわたしたちの隣人であるかたはいないのだから、このかたを主、また隣人として愛そうではないか。実際、頭よりもからだの部分に近いものはない。キリストに倣う者をも愛そうではないか。からだの一致のゆえに、他者の苦しみのために苦しむ者をも愛そうではないか」(6)。寄り添われ、ともにいていただき、愛を与えられ、分かち与えられることによって、一なるかたのうちに一つであることが、聖フランシスコと同じように、キリストと出会う甘美さを味わうことです。。。

2026年1月20日火曜日

ある修道女の死

 

皆様お元気で新年をお迎えでしょうか。一年の計はおたてになりましたか。今年も私達のブログをよろしくお願いいたします。

 今回は私達のシスターが帰天いたしましたので、その時の軽井沢修道院の院長の挨拶を掲載いたしました。どうぞご一読下さい。

今日はシスターアグネス山田日出子の葬儀ミサにご参列いただきありがとうございました。

あまりに突然なことで私はまだシスターアグネスが亡くなったということが実感できません。皆さまも同じだと思います。シスターアグネスは亡くなる数時間前までいつものように生活していました。ただ夕方の5時半から始まるお祈りに姿が見えなかったのです。いつもはお祈りの15分以上前から聖堂にいました。決して遅れることはありませんでした。でもその日は3分前になっても姿がなかったので心配になって、彼女のお部屋をのぞいたところ、服のままベッドに横になっていて、めまいがして起き上がれないと言っていました。血圧を測ったところ200以上あったので危険と思い救急車をお願いしました。初めはしっかりしていましたが救急隊のかたとやり取りしているうちに意識がなくなってしまい、佐久医療センターに救急搬送されました。検査の結果、脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血で、しかも一番重いレベルでもう手の施しようがないとのことでした。長くて2・3日と言われました。そして救命救急の病室に入院となりましたが、たった3時間半という短い時間をそこで過ごしただけで、神様のみもとに旅立ってしまいました。その短い時間に軽井沢教会の主任司祭ソリ神父様が駆けつけてくださり、病者の塗油の秘跡を受けることができました。その後病状が安定しているように見えたので一人のシスターが残ることになり、もう一人のシスターと私は、神父様の車に乗せていただきいったん帰路に着きました。しかしその途中で危篤との連絡が入りもう一度病院に引き返しました。そして三人のシスターに囲まれ、神父様に最後の祝福をいただいて、シスターアグネスは神様のみ元に旅立っていきました。2026年1月9日 午後10時8分でした。シスターアグネスは、とにかく何をするにも早い人でした。ですから、ある意味この突然の旅立ちはまことにシスターアグネスらしいと言えます。

決断が早く潔く、清貧に生き余分なものを持たず、謙遜で働き者、最後まで自分の使命を誠実に全うしたシスターアグネスは私たちの模範でした。そしてシスターアグネスは何よりもその存在で神様の愛を証しした人でした。一昨日夜の10時過ぎに一人の婦人がどうしても一目会いたいとやって来ました。彼女はすぐ裏にお住まいですが、たまたまこの日々仕事の都合で東京にいました。仕事が終わってから新幹線に飛び乗りシスターアグネスに一目会うためだけにやってきたのです。そしてシスターアグネスの存在によってどれほど救われたかを涙ながらに語ってくださいました。かつてシスターアグネスが駒ケ根のマルチン幼稚園の園長だったころお子さんたちがマルチンに通っていてシスターアグネスに出会い、その後お子さんたちも成人し、シスターアグネスも長年奉仕した幼児教育の現場を離れ軽井沢修道院に異動になってから偶然にもこんなに近くに住むようになったのです。親切な神様の計らいを感じます。

 シスターアグネスの飛び切りの笑顔がこの日ずっと浮かんできます。とにかく何でも早いシスターアグネスのことだからきっと神様のみ元にも直行したのだと思います。そしてこれからも皆さんのために天国で祈り続けてくれると信じています。

2025年11月7日金曜日

決して忘れらない

 

皆様、今回十一月のブログに素晴らしニュースを分かち合いたいと思います。8月1日に全国で放映された『長崎‐閃光の影で』と言う映画についてです。このドラマの中に人間の苦しみを通して他の人の優しさと奉仕の精神が表現されています。


映画『長崎-閃光の影で-』バチカンで上映会

映画『長崎-閃光の影で-』の上映会が、松本准平監督出席のもと、バチカンのフィルモテーカで行われた。

 映画『長崎-閃光の影で-』の上映会が、10月31日、松本准平監督出席のもと、バチカンのフィルモテーカで行われた。

 『長崎-閃光の影で-』(松本准平監督・共同脚本)は、日本で今年7月25日に長崎県内で先行公開され、8月1日に全国公開された作品。海外での上映としては、今回のバチカンでの上映会が初めてとなった。

 また、同作は、日本カトリック司教協議会の初の推薦作品である。

 同作品は、『閃光の影で-原爆被爆者救護赤十字看護婦の手記』を原案に、被爆した長崎の現実を、スミ、アツ子、ミサヲの3人看護学生の立場と視点から描いている。

 戦時下の緊張を生きながらもそれぞれの家族や淡い未来像を抱いていた3人は、原爆が投下された8月9日を境に、「新型爆弾」によりすべてが一変した未知の世界に放り出される。想像を絶する事態を前に茫然自失し、その非現実的な状況に圧倒されながらも、3人は看護学生として葛藤や不安、重い苦しみの中で自らを律し、赤十字に次々運ばれてくる負傷者のために、当時の限られた条件の中で奔走する。

 この究極の状況を背景に、3人の主人公とまわりの登場人物の言動から、戦争と原爆に対する怒り、人々の強さと脆さ、憎しみとゆるし、不信と信頼、罪の意識と清く崇高なものへの渇望、そして、信仰、希望、愛、平和、いのち、再生といったテーマが浮かび上がっていく。

 上映前の挨拶で、千葉明・駐バチカン日本国特命全権大使は、核兵器が人類の頭上に投下されてから80年の年に、この上映会に関わることができた意味に言及した。

映画『長崎-閃光の影で-』バチカンで上映会 - バチカン・ニュース - https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2025-11/filmoteca-vaticana-proiezione-nagasaki-senkou-no-kege-de.html

2025年10月21日火曜日

10月

 


 もう十月になりましたが、皆さんお元気で しょうか。私達もみんな元気で暑い夏もみごとにのりこえ、今は初秋を満喫しています。 どこからか"金木犀"のかおりがして心をなごませています。こちらは高い建物がありま せんので、大きな広い空を見上げて夏の入道 雲とは違ういわし雲の見事さにみいっていま す。今回は心がほっこりするお話しを二つしよ うと思います。どうぞおつきあい下さい。

 双子の小さい姉妹がバスに乗っていました。いつも降りる時の"停車ボタン"を押したくてたまりません 。まず二人でジャンケンして勝った 方が押すことになっています。それなのに負けた方がズルをして押してしまいました。そ うしたら勝った方の子がワッと泣きだしました。 それを見て運転さんは"もう一度押して いいですよ"と言いました。勝った子は泣き やんで"停車ボタン"を押しました。何と優 しい運転士さんでしょう。私も優しい気持 ちになりました。

 もうひとつはかつて大学に通いながら学費 のために朝刊、夕刊を配っていました。ある日配達先のおばあさんから、思いがけず手袋 をプレゼントされました。「寒くて大変でしょ う。でも努力は必ず報われるから」涙があふれました。手袋は大事にとってあります。  

 私達はともすると大きな親切をしようと小 さな親切をおろそかにしてしまいます。小さ いところに神様がいるのですね。

 一日一日と日が暮れるのがはやくなります。 だんだんと秋が深まってまいります。どうぞ 体調に気を付けてお過ごし下さい。又お会い しましょう。