DILEXIT NOS
彼は私たちを愛された
教皇フランシスコ使徒的勧告
キリストの御心の人間的および神的な愛について
キリストの御心は、その人格の中心を象徴し、そこから私たちへの愛が湧き出ます。
私たちの信仰の源、キリスト教の信念を生かし続ける泉なのです。
キリストがどのように私たちを愛しておられるのか、彼は多くを言葉で説明しようとはされませんでした。その愛は、彼の行いによって示されたのです。彼の行動を注視することで、たとえ理解しにくいとしても、彼が私たち一人ひとりをどのように扱っておられるのかを知ることができます。ですから、私たちの信仰が彼を認識できる場所、すなわち福音書へと目を向けましょう。
福音書は、イエスが「ご自分の民のところに来られた」(ヨハネ 1 章 11 節)と伝えています。その「ご自分の民」とは、私たちのことです。なぜなら、彼は私たちを見知らぬものとしてではなく、ご自身のもの、大切に、愛情深く守るべき存在として見なしておられるからです。彼は私たちをご自身のものとして扱われます。それは私たちが彼の奴隷であるという意味ではなく、彼自身も「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」(ヨハネ 15 章 15 節)と否定されています。彼が示されているのは、友人としての相互の繋がりです。彼は来られ、あらゆる隔たりを越え、私たちの存在における最も単純で日常的な事物のように、私たちに近づいてくださいました。実際、彼には「インマヌエル」、すなわち「神は私たちと共にいる」、私たちの人生の傍らにいる神、私たちの中で生きる神というもう一つの名があります。神の子は肉となり、「ご自身を無にして、奴隷の身分を取られました。」(フィリピ人への手紙 2 章 7 節)彼の行動を見ると明らかになります。彼は常に探し求め、私たちに寄り添い、絶えず出会いに開かれています。
主は優しさという美しい術をご存知だからです。神の慈しみは言葉だけで私たちを愛するのではなく、近づいて、私たちに寄り添いながら、ありったけの優しさをもってその愛を与えてくださるのです。
私たちは多くの偽り、攻撃、失望によって傷つけられてきたために、信頼することが難しいと感じることがあります。そのような私たちに、彼は耳元でそっと囁きます。「勇気を出しなさい、わが子よ」(マタイ
9 章 2 節)。「勇気を出しなさい、娘よ」(マタイ 9 章 22 節)。恐れを乗り越え、彼と共にいるならば何も失うものはないと気づくことが大切です。疑心暗鬼になっていたペトロに、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、“なぜ疑ったのか”と言われた」(マタイ 14
章 31 節)。恐れることはありません。彼が近づき、あなたの傍らに座るのを許しましょう。多くの人を疑うことがあっても、彼を疑うことはありません。そして、自分の罪のために立ち止まる必要はありません。多くの罪人が「イエスと共に食事をしていた」(マタイ 9 章 10 節)ことを思い出してください。イエスは誰に対しても憤慨されなかったのです。
ファリサイ派の人々が、身分の低い者や罪人と見なされる人々へのイエスの親しみを批判したとき、イエスは彼らに言われました。『わたしは憐れみを求めるが、いけにえを求めない』(マタイ
9 章 13 節)。
その同じイエスが今日、あなたがご自身の光であなたの存在を照らし、あなたを立ち上がらせ、ご自身の力であなたを満たす機会を与えてくれるのを待っておられます。なぜなら、死ぬ前に弟子たちに言われたからです。「わたしはあなたがたを孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来る。間もなく、世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」(ヨハネ 14 章 18-19 節)。彼は常に、あなたの人生の中でご自身を現し、あなたが彼と出会えるような方法を見つけてくださいます。
福音書の多くの箇所は、イエスが人々のこと、その不安、苦しみに全心を注いでおられる様子を示しています。例えば、「群衆を見て、イエスは深く憐れまれた。彼らは疲れ果て、打ちひしがれていたからである」(マタイ 9 章 36 節)。私たち皆が自分たちを無視し、自分たちの身に起こることに誰も関心がないように感じ、誰にとっても自分は重要ではないと思える時でさえ、彼は私たちを大切に思ってくださっています。
人間として、イエスはこのことを聖母マリアから学ばれました。マリアはあらゆることを注意深く見つめ、「それをすべて心に留めていた」(ルカ 2 章 19 節、51
節参照)方であり、聖ヨセフと共に幼いイエスに、目を向けることを教えられました。
イエスは私たちの内なる声に語りかけ、ご自身の御心へと私たちを招き入れようとされます。それは、私たちが力と平安を取り戻せる場所へと入るようにとの招きです。「疲れている者、重荷を負っている者は皆、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ
11 章 28 節)。だからこそ、彼は弟子たちに『わたしの中にとどまりなさい』(ヨハネ 15 章 4 節)と願われたのです。
聖パウロはキリストとの関係を「わたしを愛し、わたしのためにご自身を献げてくださった」(ガラテヤ 2 章 20 節)と表現し、自分が愛されていると知ることが最大の確信だったと語っています。
その御心を貫かれ、燃えるような愛を持つキリストは、愛ゆえにベツレヘムで生まれ、ガリラヤを歩きながら癒し、優しく触れ、憐れみを注ぎ、十字架上で両腕を開いて私たちを最後まで愛し抜いた方、まさにその方です。そして、復活し、私たちの間で栄光に満ちて生きているのも、同じキリストなのです。
無限なる神の御子は、人間の心で私を愛することを望まれました。キリストの御心の中に身を置くことで、私たちは、私たちと同じような愛情と感情に満ちた、人間的な心によって愛されていると感じるのです。
主イエス・キリストよ、どうかあなたの聖なる御心から、私たちが互いに傷つけ合った心の痛みを癒し、愛と奉仕への渇望を燃え上がらせ、正義と連帯、そして兄弟愛に満ちた世界へ、共に歩む勇気を与えてください。