https://youtu.be/3Bu3iqWoZn4?si=vZHQzm0mLaw83hN1
https://youtu.be/tV-GzDHhmI8?si=BReoz6I30-g-SeHo
映画『長崎-閃光の影で-』の上映会が、10月31日、松本准平監督出席のもと、バチカンのフィルモテーカで行われた。
『長崎-閃光の影で-』(松本准平監督・共同脚本)は、日本で今年7月25日に長崎県内で先行公開され、8月1日に全国公開された作品。海外での上映としては、今回のバチカンでの上映会が初めてとなった。
また、同作は、日本カトリック司教協議会の初の推薦作品である。
同作品は、『閃光の影で-原爆被爆者救護赤十字看護婦の手記』を原案に、被爆した長崎の現実を、スミ、アツ子、ミサヲの3人看護学生の立場と視点から描いている。
戦時下の緊張を生きながらもそれぞれの家族や淡い未来像を抱いていた3人は、原爆が投下された8月9日を境に、「新型爆弾」によりすべてが一変した未知の世界に放り出される。想像を絶する事態を前に茫然自失し、その非現実的な状況に圧倒されながらも、3人は看護学生として葛藤や不安、重い苦しみの中で自らを律し、赤十字に次々運ばれてくる負傷者のために、当時の限られた条件の中で奔走する。
この究極の状況を背景に、3人の主人公とまわりの登場人物の言動から、戦争と原爆に対する怒り、人々の強さと脆さ、憎しみとゆるし、不信と信頼、罪の意識と清く崇高なものへの渇望、そして、信仰、希望、愛、平和、いのち、再生といったテーマが浮かび上がっていく。
上映前の挨拶で、千葉明・駐バチカン日本国特命全権大使は、核兵器が人類の頭上に投下されてから80年の年に、この上映会に関わることができた意味に言及した。
映画『長崎-閃光の影で-』バチカンで上映会 - バチカン・ニュース - https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2025-11/filmoteca-vaticana-proiezione-nagasaki-senkou-no-kege-de.html
もう十月になりましたが、皆さんお元気で しょうか。私達もみんな元気で暑い夏もみごとにのりこえ、今は初秋を満喫しています。 どこからか"金木犀"のかおりがして心をなごませています。こちらは高い建物がありま せんので、大きな広い空を見上げて夏の入道 雲とは違ういわし雲の見事さにみいっていま す。今回は心がほっこりするお話しを二つしよ うと思います。どうぞおつきあい下さい。
双子の小さい姉妹がバスに乗っていました。いつも降りる時の"停車ボタン"を押したくてたまりません 。まず二人でジャンケンして勝った 方が押すことになっています。それなのに負けた方がズルをして押してしまいました。そ うしたら勝った方の子がワッと泣きだしました。 それを見て運転さんは"もう一度押して いいですよ"と言いました。勝った子は泣き やんで"停車ボタン"を押しました。何と優 しい運転士さんでしょう。私も優しい気持 ちになりました。
もうひとつはかつて大学に通いながら学費 のために朝刊、夕刊を配っていました。ある日配達先のおばあさんから、思いがけず手袋 をプレゼントされました。「寒くて大変でしょ う。でも努力は必ず報われるから」涙があふれました。手袋は大事にとってあります。
私達はともすると大きな親切をしようと小 さな親切をおろそかにしてしまいます。小さ いところに神様がいるのですね。
一日一日と日が暮れるのがはやくなります。 だんだんと秋が深まってまいります。どうぞ 体調に気を付けてお過ごし下さい。又お会い しましょう。
皆様、おはようございます。 9月29日は、カトリック教会にとって特別な日です。聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエルという3人の大天使を記念する祝日です。
もともと、教会はこの日を「聖ミカエルの祝日」として祝っていましたが、1970年の典礼改革によって、聖書に登場する他の二人の大天使、聖ガブリエルと聖ラファエルも一緒に記念することになりました。
ミカエル、ガブリエル、ラファエルという名前には、それぞれ深い意味があります。
ミカエルは「誰が神のようであろうか」を意味し、神の軍勢を率いて悪魔と戦う、教会の守護者として知られています。
ガブリエルは「神はわが力」を意味し、受胎告知を通じてイエス・キリストの誕生をマリア様にお告げになった、神の使者です。
ラファエルは「神は癒される」を意味し、トビト記に登場する旅人の守護者、そして人々の心身を癒す天使として崇敬されています。
天使は、私たちの目には見えない存在ですが、神の栄光をたたえ、神の意志を伝えるために創造された霊的な存在とされています。彼らは、神と私たち人間との間にあって、神の愛と恵みを運び、時に私たちを守り、導いてくださる存在なのです。
横浜教区のラファエル梅村昌弘司教様、うちの修道院のシスターガブリエラ、そしてこの日に霊名の祝日を迎える方々のために特にお祈りしています。
大天使たちの恵みが、皆様の上に豊かにありますように。
夏まっ盛りですがみなさんいかがおすごしでしょうか。
私達修道者は年に一回黙想しなければなりません。まさに恵みのときであります。今年も二つのグループに分かれて行われます。場所は軽井沢修道院です。いつもは7月と8月なのですが今年は6月でした。6月の軽井沢はまだ寒く、軽井沢の姉妹から上着をかりました。そうこうして始まった黙想会、まず振り返えりからはじまり、自分のからをやぶるためのステップが4まであり神父様の指導のもとにすすんでいきました。そして最後に“感謝”にたどりつきました。
「感謝は霊的な実りです。感謝は私たちの視点を欠乏から豊かさに移動させ、与えられた独自のおくりものに気づかせます。感謝を通じて個人は痛ましい経験の中でさえ神のいやしの手を実践してそれらをより深い愛、より強い希望、より広い信仰のための心の浄化の機会として理解できるようになります。すべては恵みであることを一歩ずつ理解していくために、私達は感謝しながら感謝する人に成長していくのです。」とおっしゃいました。そして「感謝の心を育てる効果的な方法は、自分に向けられた神の祝福を意識して、くりかえし数えることです。つまり自分の人生の中にある良いもの、健康、友人、美しい日没、小さな親切を探し出し、それに感謝することです」とおっしゃいました。
最後までお読みいただきありがとうございました。何かお役にたったでしょうか。これからますます暑くなりますが、体調など崩されませんようお過ごし下さい。又、お会いしましょう。
DILEXIT NOS
彼は私たちを愛された
教皇フランシスコ使徒的勧告
キリストの御心の人間的および神的な愛について
キリストの御心は、その人格の中心を象徴し、そこから私たちへの愛が湧き出ます。
私たちの信仰の源、キリスト教の信念を生かし続ける泉なのです。
キリストがどのように私たちを愛しておられるのか、彼は多くを言葉で説明しようとはされませんでした。その愛は、彼の行いによって示されたのです。彼の行動を注視することで、たとえ理解しにくいとしても、彼が私たち一人ひとりをどのように扱っておられるのかを知ることができます。ですから、私たちの信仰が彼を認識できる場所、すなわち福音書へと目を向けましょう。
主は優しさという美しい術をご存知だからです。神の慈しみは言葉だけで私たちを愛するのではなく、近づいて、私たちに寄り添いながら、ありったけの優しさをもってその愛を与えてくださるのです。
私たちは多くの偽り、攻撃、失望によって傷つけられてきたために、信頼することが難しいと感じることがあります。そのような私たちに、彼は耳元でそっと囁きます。「勇気を出しなさい、わが子よ」(マタイ
9 章 2 節)。「勇気を出しなさい、娘よ」(マタイ 9 章 22 節)。恐れを乗り越え、彼と共にいるならば何も失うものはないと気づくことが大切です。疑心暗鬼になっていたペトロに、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、“なぜ疑ったのか”と言われた」(マタイ 14
章 31 節)。恐れることはありません。彼が近づき、あなたの傍らに座るのを許しましょう。多くの人を疑うことがあっても、彼を疑うことはありません。そして、自分の罪のために立ち止まる必要はありません。多くの罪人が「イエスと共に食事をしていた」(マタイ 9 章 10 節)ことを思い出してください。イエスは誰に対しても憤慨されなかったのです。
ファリサイ派の人々が、身分の低い者や罪人と見なされる人々へのイエスの親しみを批判したとき、イエスは彼らに言われました。『わたしは憐れみを求めるが、いけにえを求めない』(マタイ
9 章 13 節)。
その同じイエスが今日、あなたがご自身の光であなたの存在を照らし、あなたを立ち上がらせ、ご自身の力であなたを満たす機会を与えてくれるのを待っておられます。なぜなら、死ぬ前に弟子たちに言われたからです。「わたしはあなたがたを孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来る。間もなく、世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」(ヨハネ 14 章 18-19 節)。彼は常に、あなたの人生の中でご自身を現し、あなたが彼と出会えるような方法を見つけてくださいます。
福音書の多くの箇所は、イエスが人々のこと、その不安、苦しみに全心を注いでおられる様子を示しています。例えば、「群衆を見て、イエスは深く憐れまれた。彼らは疲れ果て、打ちひしがれていたからである」(マタイ 9 章 36 節)。私たち皆が自分たちを無視し、自分たちの身に起こることに誰も関心がないように感じ、誰にとっても自分は重要ではないと思える時でさえ、彼は私たちを大切に思ってくださっています。
人間として、イエスはこのことを聖母マリアから学ばれました。マリアはあらゆることを注意深く見つめ、「それをすべて心に留めていた」(ルカ 2 章 19 節、51
節参照)方であり、聖ヨセフと共に幼いイエスに、目を向けることを教えられました。
イエスは私たちの内なる声に語りかけ、ご自身の御心へと私たちを招き入れようとされます。それは、私たちが力と平安を取り戻せる場所へと入るようにとの招きです。「疲れている者、重荷を負っている者は皆、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ
11 章 28 節)。だからこそ、彼は弟子たちに『わたしの中にとどまりなさい』(ヨハネ 15 章 4 節)と願われたのです。
その御心を貫かれ、燃えるような愛を持つキリストは、愛ゆえにベツレヘムで生まれ、ガリラヤを歩きながら癒し、優しく触れ、憐れみを注ぎ、十字架上で両腕を開いて私たちを最後まで愛し抜いた方、まさにその方です。そして、復活し、私たちの間で栄光に満ちて生きているのも、同じキリストなのです。
無限なる神の御子は、人間の心で私を愛することを望まれました。キリストの御心の中に身を置くことで、私たちは、私たちと同じような愛情と感情に満ちた、人間的な心によって愛されていると感じるのです。
主イエス・キリストよ、どうかあなたの聖なる御心から、私たちが互いに傷つけ合った心の痛みを癒し、愛と奉仕への渇望を燃え上がらせ、正義と連帯、そして兄弟愛に満ちた世界へ、共に歩む勇気を与えてください。
美しいマリア
・全ての正義、恵み、美は彼女の内にある。彼女の美しい魂は天国の花壇。 彼女の姿はまるで詩、天使たちも彼女を見る時の畏敬の念は十倍も深い。 きっと、神の目に彼女はあらゆる天使的な美を超えているに違いない。
・私は母であるより先に神の娘、はしためです。私の平静さは神のおぼしめしを行うところにあります。私の明るさは神のおぼしめしを行うところから来ます。
人間であれば一番知恵深い人であっても間違った望みを課す場合がありますけれども神の場合は違います。私たちを助けられるのは無限の手段を持っていらっしゃる神しかないのです。
私は無条件で私自身を神に捧げました。このことで私はどれ程の苦しみが来るのかを知っていましたのに。その時、預言者たちは私の知恵の前に在り、神の光が予言者たちのことばをはっきりわからせてくれました。天使に伝えた私のことば「なれかし」によって、母となるものは耐え忍べる最大の苦しみに自分自身を捧げなければならないと知りました。
いつも、あなたは谷に咲く百合、かぐわしいバラ、美しいオリーブ、豊かなぶどうの木、強いぶどう酒と、拝領するにふさわしい心の人に死から守るペンを下さいました。
聖ヨハネ
まだ命のない横になったマリアの体が天使たちの群れに支えられて天の天へと昇っていく。マリアが太陽の光に包まれて霊魂を体から離す脱魂状態が終わって、その足で立つ。天へと真っすぐ昇るマリアをみる。ホザンナを歌う天使たちに囲まれているが、もう支えられてはいない。キリストはえも言われぬ美しきで輝かしく光りながら天から真っすぐ下って母に会うと胸に抱きしめ一緒に二つの大きな星より輝いてもと来たところに引き返している。
復活されたイエスのことば
私を宿して、育て生きる時も死ぬ時も私を助けて下さったことを感謝しています。私はあなたの祈りが私にやってくるのを感じていました。その祈りは苦しみの時の私の力、この世での、またこの世のかなたまでの私の旅の仲間でした、 その祈りは十字架まで、リンボまで、私と一緒に来ました。
その祈りは死ぬことのない宝殿、私の天に導くため僕たちを迎えに行っていた大司祭の前に煙る香でした。その祈りは御父と聖霊に見られ、又開かれ、父と子とは天国で生まれた最も美しい花を見、最も優しい歌を聞いたかのように微笑みました。
貴女は生きている天国であり、地上において三位一体を担う者であり司祭職の女王であります。
そうしてキリスト者の母であるがために教会を聖とするものであるわけです。
教会は、聖母マリアの浄配で、イエズスの養父であられた聖 ヨゼフを特別に賛美し、尊敬するために、3 月を選びました。 この月に当たり私たちは聖ヨゼフに対する愛と信心とを深 めるようにしましょう。 (聖ヨゼフに祈る カシアノ・テティヒ より)
父の心でヨセフはこのようにイエスを愛しました。
聖ヨセフの偉大さは、彼がマリアの夫であり、イエスの父であるという事実にあります。ヨセフはイエスが日々、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2・52)様子を見守っていました。主がイスラエルになさったように、ヨセフはイエスに接します。「腕を支えて、歩くことを教えた。子を持ち上げて頬を寄せる父のようで、身をかがめて食べさせた」(ホセア11・3-4参照)。
ヨセフの受け入れる心は、排除することなく、その人そのままに、弱い人を優先して、他者を受け入れるようわたしたちを招きます。
この方は、決して中心にはなりませんでした。マリアとイエスを自らの人生の中心に据えるために、いかに自らを脇に置くかを理解していました。
ヨセフの喜びは、自己犠牲の論理にではなく、自分贈与の論理にあるのです。全能なるかたの御子は、大いなる弱さを身に受け、この世に来られます。守られ、保護され、世話を受け、育ててもらうために、このかたにはヨセフが必要です。マリアがそうしたように、神はヨセフを信頼なさいます。マリアはヨセフに、彼女のいのちを救おうとする姿だけではなく、ご自分と御子とにつねに心を砕く姿を見ておられます。
その意味で、聖ヨセフが教会の保護者ではないはずがありません。ヨセフは教会を守り続けることで、御子とその母を守り続けており、わたしたちもまた、教会を愛することで、御子とその母を愛し続けるのです。
祈り
あがない主の保護者、おとめマリアの夫よ。
教皇フランシスコ 使徒的書簡 「父の心で」より
日頃、高齢のために教会に行かれない姉妹も一緒にさいたま教区の巡礼教会である太田教会へ2月1日土曜日巡礼に行ってきました。お御堂に入るとルーチェが迎えてくれました。コーラスを練習していた聖歌隊の信者さんと神父様の大歓迎を受けました。希望の巡礼者の歌を教わりながらコーラスの方々と歌いました。"聖年の祈り"を唱え、聖年がもたらしてくださる恵みを心を込めて祈りしました。
太田教会のスタンプを押してもらって共に元気でこの"聖年"という節目に立ち会うことができたことを神に感謝しました。
カトリック教会では、聖年は、神の特別な恵みと赦しが与えられる特別な期間とされています。およそ25年ごとに巡ってきます。この期間中、カトリック信者は、罪の罰を完全に免除される「全免償」を受けることができます。聖年の期間は、イベントや巡礼、そして慈悲と和解を深めるための様々な活動で彩られます。
教皇フランシスコは、ローマの大聖堂にある聖なる扉を開くことで、聖年の始まりを告げます。これは、神様の救いの扉が開かれたことを象徴する重要な儀式です。聖年の間には、信仰を深め、キリスト教の生活を実践するための様々な祈りと活動が行われます。
さて、ここからは、教皇フランシスコの通常聖年公布大勅書の一部をご紹介いたします。ぜひご一読ください。そして、最後に聖年のための祈りを掲載しますので、共に祈りましょう。
1 「希望はわたしたちを欺くことがありません(Spes non confundit)」(ローマ5・5)。使徒パウロは希望のしるしの名のもとに、ローマのキリスト者の共同体に励ましを与えます。古来の伝統に従って教皇が25年ごとに宣言する、次の聖年の中心となるメッセージも希望です。わたしは、聖年を過ごすためにローマを訪れる人たちと、使徒ペトロとパウロの町に行くことはかなわずとも部分教会において聖年を祝う人たち、そうしたすべての希望の巡礼者のことを思います。すべての人にとって聖年が、救いの「門」である主イエス(ヨハネ10・7、9参照)との、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように。教会は、主イエスを「わたしたちの希望」(一テモテ1・1)として、いつでも、どこでも、すべての人にのべ伝える使命をもっています。
すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望はよいものへの願望と期待として、一人ひとりの心の中に宿っています。けれども将来が予測できないことから、相反する思いを抱くこともあります。信頼から恐れへ、平穏から落胆へ、確信から疑いへ―。わたしたちはしばしば、失望した人と出会います。自分に幸福をもたらしうるものなど何もないかのように、懐疑的に、悲観的に将来を見る人たちです。聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。神のことばが、その根拠を見つけるのを助けてくれます。使徒パウロがローマのキリスト信者にあてて書いたものに案内してもらいましょう。天の父よ、
あなたは、わたしたちの兄弟、御子イエスにおいて信仰を与え、
聖霊によってわたしたちの心に愛の炎を燃え上がらせてくださいました。
この信仰と愛によって、
神の国の訪れを待ち望む、祝福に満ちた希望が、
わたしたちのうちに呼び覚まされますように。
あなたの恵みによって、わたしたちが、
福音の種をたゆまず育てる者へと変えられますように。
この種によって、新しい天と新しい地への確かな期待をもって、
人類とすべてのものが豊かに成長していきますように。
そのとき、悪の力は打ち払われ、
あなたの栄光が永遠に光り輝きます。
聖年の恵みによって、
希望の巡礼者であるわたしたちのうちに、
天の宝へのあこがれが呼び覚まされ、
あがない主の喜びと平和が全世界に行き渡りますように。
永遠にほめたたえられる神であるあなたに、
栄光と賛美が世々とこしえにありますように。
アーメン。
