2025年6月1日日曜日

6月 イエズスの御心の月

 

DILEXIT NOS

彼は私たちを愛された

教皇フランシスコ使徒的勧告

キリストの御心の人間的および神的な愛について

 

キリストの御心は、その人格の中心を象徴し、そこから私たちへの愛が湧き出ます。

私たちの信仰の源、キリスト教の信念を生かし続ける泉なのです。

 

キリストがどのように私たちを愛しておられるのか、彼は多くを言葉で説明しようとはされませんでした。その愛は、彼の行いによって示されたのです。彼の行動を注視することで、たとえ理解しにくいとしても、彼が私たち一人ひとりをどのように扱っておられるのかを知ることができます。ですから、私たちの信仰が彼を認識できる場所、すなわち福音書へと目を向けましょう。

 


福音書は、イエスが「ご自分の民のところに来られた」(ヨハネ 1 11 節)と伝えています。その「ご自分の民」とは、私たちのことです。なぜなら、彼は私たちを見知らぬものとしてではなく、ご自身のもの、大切に、愛情深く守るべき存在として見なしておられるからです。彼は私たちをご自身のものとして扱われます。それは私たちが彼の奴隷であるという意味ではなく、彼自身も「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」(ヨハネ 15 15 節)と否定されています。彼が示されているのは、友人としての相互の繋がりです。彼は来られ、あらゆる隔たりを越え、私たちの存在における最も単純で日常的な事物のように、私たちに近づいてくださいました。実際、彼には「インマヌエル」、すなわち「神は私たちと共にいる」、私たちの人生の傍らにいる神、私たちの中で生きる神というもう一つの名があります。神の子は肉となり、「ご自身を無にして、奴隷の身分を取られました。」(フィリピ人への手紙 2 7 節)彼の行動を見ると明らかになります。彼は常に探し求め、私たちに寄り添い、絶えず出会いに開かれています。

主は優しさという美しい術をご存知だからです。神の慈しみは言葉だけで私たちを愛するのではなく、近づいて、私たちに寄り添いながら、ありったけの優しさをもってその愛を与えてくださるのです。

私たちは多くの偽り、攻撃、失望によって傷つけられてきたために、信頼することが難しいと感じることがあります。そのような私たちに、彼は耳元でそっと囁きます。「勇気を出しなさい、わが子よ」(マタイ 9 2 節)。「勇気を出しなさい、娘よ」(マタイ 9 22 節)。恐れを乗り越え、彼と共にいるならば何も失うものはないと気づくことが大切です。疑心暗鬼になっていたペトロに、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、なぜ疑ったのかと言われた」(マタイ 14 31 節)。恐れることはありません。彼が近づき、あなたの傍らに座るのを許しましょう。多くの人を疑うことがあっても、彼を疑うことはありません。そして、自分の罪のために立ち止まる必要はありません。多くの罪人が「イエスと共に食事をしていた」(マタイ 9 10 節)ことを思い出してください。イエスは誰に対しても憤慨されなかったのです。

ファリサイ派の人々が、身分の低い者や罪人と見なされる人々へのイエスの親しみを批判したとき、イエスは彼らに言われました。『わたしは憐れみを求めるが、いけにえを求めない』(マタイ 9 13 節)。

その同じイエスが今日、あなたがご自身の光であなたの存在を照らし、あなたを立ち上がらせ、ご自身の力であなたを満たす機会を与えてくれるのを待っておられます。なぜなら、死ぬ前に弟子たちに言われたからです。「わたしはあなたがたを孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来る。間もなく、世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」(ヨハネ 14 18-19 節)。彼は常に、あなたの人生の中でご自身を現し、あなたが彼と出会えるような方法を見つけてくださいます。

福音書の多くの箇所は、イエスが人々のこと、その不安、苦しみに全心を注いでおられる様子を示しています。例えば、「群衆を見て、イエスは深く憐れまれた。彼らは疲れ果て、打ちひしがれていたからである」(マタイ 9 36 節)。私たち皆が自分たちを無視し、自分たちの身に起こることに誰も関心がないように感じ、誰にとっても自分は重要ではないと思える時でさえ、彼は私たちを大切に思ってくださっています。

私たちを気にかけてくださっているからこそ、彼はあなたが抱くどんな良い思いも、どんな小さな善い行いも、ちゃんと分かってくださるのです。

人間として、イエスはこのことを聖母マリアから学ばれました。マリアはあらゆることを注意深く見つめ、「それをすべて心に留めていた」(ルカ 2 19 節、51 節参照)方であり、聖ヨセフと共に幼いイエスに、目を向けることを教えられました。


イエスは私たちの内なる声に語りかけ、ご自身の御心へと私たちを招き入れようとされます。それは、私たちが力と平安を取り戻せる場所へと入るようにとの招きです。「疲れている者、重荷を負っている者は皆、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ 11 28 節)。だからこそ、彼は弟子たちに『わたしの中にとどまりなさい』(ヨハネ 15 4 節)と願われたのです。


聖パウロはキリストとの関係を「わたしを愛し、わたしのためにご自身を献げてくださった」(ガラテヤ 2 20 節)と表現し、自分が愛されていると知ることが最大の確信だったと語っています。

 



その御心を貫かれ、燃えるような愛を持つキリストは、愛ゆえにベツレヘムで生まれ、ガリラヤを歩きながら癒し、優しく触れ、憐れみを注ぎ、十字架上で両腕を開いて私たちを最後まで愛し抜いた方、まさにその方です。そして、復活し、私たちの間で栄光に満ちて生きているのも、同じキリストなのです。

無限なる神の御子は、人間の心で私を愛することを望まれました。キリストの御心の中に身を置くことで、私たちは、私たちと同じような愛情と感情に満ちた、人間的な心によって愛されていると感じるのです。

 

主イエス・キリストよ、どうかあなたの聖なる御心から、私たちが互いに傷つけ合った心の痛みを癒し、愛と奉仕への渇望を燃え上がらせ、正義と連帯、そして兄弟愛に満ちた世界へ、共に歩む勇気を与えてください。


2025年5月31日土曜日

マリア様 おめでとう❣

 美しいマリア





・全ての正義、恵み、美は彼女の内にある。彼女の美しい魂は天国の花壇。 彼女の姿はまるで詩、天使たちも彼女を見る時の畏敬の念は十倍も深い。 きっと、神の目に彼女はあらゆる天使的な美を超えているに違いない。


・私は母であるより先に神の娘、はしためです。私の平静さは神のおぼしめしを行うところにあります。私の明るさは神のおぼしめしを行うところから来ます。

人間であれば一番知恵深い人であっても間違った望みを課す場合がありますけれども神の場合は違います。私たちを助けられるのは無限の手段を持っていらっしゃる神しかないのです。

私は無条件で私自身を神に捧げました。このことで私はどれ程の苦しみが来るのかを知っていましたのに。その時、預言者たちは私の知恵の前に在り、神の光が予言者たちのことばをはっきりわからせてくれました。天使に伝えた私のことば「なれかし」によって、母となるものは耐え忍べる最大の苦しみに自分自身を捧げなければならないと知りました。

いつも、あなたは谷に咲く百合、かぐわしいバラ、美しいオリーブ、豊かなぶどうの木、強いぶどう酒と、拝領するにふさわしい心の人に死から守るペンを下さいました。


聖ヨハネ

まだ命のない横になったマリアの体が天使たちの群れに支えられて天の天へと昇っていく。マリアが太陽の光に包まれて霊魂を体から離す脱魂状態が終わって、その足で立つ。天へと真っすぐ昇るマリアをみる。ホザンナを歌う天使たちに囲まれているが、もう支えられてはいない。キリストはえも言われぬ美しきで輝かしく光りながら天から真っすぐ下って母に会うと胸に抱きしめ一緒に二つの大きな星より輝いてもと来たところに引き返している。


復活されたイエスのことば

私を宿して、育て生きる時も死ぬ時も私を助けて下さったことを感謝しています。私はあなたの祈りが私にやってくるのを感じていました。その祈りは苦しみの時の私の力、この世での、またこの世のかなたまでの私の旅の仲間でした、 その祈りは十字架まで、リンボまで、私と一緒に来ました。


その祈りは死ぬことのない宝殿、私の天に導くため僕たちを迎えに行っていた大司祭の前に煙る香でした。その祈りは御父と聖霊に見られ、又開かれ、父と子とは天国で生まれた最も美しい花を見、最も優しい歌を聞いたかのように微笑みました。

貴女は生きている天国であり、地上において三位一体を担う者であり司祭職の女王であります。


そうしてキリスト者の母であるがために教会を聖とするものであるわけです。

2025年4月6日日曜日

ただひとつのことを




 先日はひえびえとした"花冷え"の日でした。各地の桜のニュースが入り、いよいよ寒かった冬ともお別れのようです。
 お隣に大きな桜の木があり、毎年、私たちを楽しませてくれていたのですが、害虫の被害にあい六年前に切り倒れてしまいました。とても淋しくその様子を見ていました。
しかし、間もなくそこに桜の笛木が植えられました。しっかりと根づき、おととしあたりから、一輪、二輪と花をつけるようになりました。そして、今年はこんなに見事に花を咲かせてくれました。この花冷えの中でしっかりと立って私たちを元気づけてくれています。
本当にありがとう。
 この四旬節はまた、別れと出会いの季節でもあります。こちらの修道院も一人の姉妹をお迎えしました。元看護師でとても心強いです。 
 みんなで群馬のキャラクターである群馬ちゃんの絵を持って歓迎しました。とても喜んでくれました。大先輩のシスターが歓迎の言葉をのべて、“ただ一つのことを”という歌を歌いました。“主よ、私はあなたにただひとつのことをたのみとして求める、ただひとつのことを、生きている限り、ずっと主の家に住み、あかつきとともに目覚め、主のうつくしさを仰ぎみることを♪♪
            


2025年3月1日土曜日

三月は聖ヨゼフの月

 教会は、聖母マリアの浄配で、イエズスの養父であられた聖 ヨゼフを特別に賛美し、尊敬するために、3 月を選びました。 この月に当たり私たちは聖ヨゼフに対する愛と信心とを深 めるようにしましょう。 (聖ヨゼフに祈る カシアノ・テティヒ より)

父の心でヨセフはこのようにイエスを愛しました。

聖ヨセフの偉大さは、彼がマリアの夫であり、イエスの父であるという事実にあります。ヨセフはイエスが日々、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ252)様子を見守っていました。主がイスラエルになさったように、ヨセフはイエスに接します。「腕を支えて、歩くことを教えた。子を持ち上げて頬を寄せる父のようで、身をかがめて食べさせた」(ホセア113-4参照)。



 イエスは、神のいつくしみをヨセフの中に見ました。

ヨセフの受け入れる心は、排除することなく、その人そのままに、弱い人を優先して、他者を受け入れるようわたしたちを招きます。

 この方は、決して中心にはなりませんでした。マリアとイエスを自らの人生の中心に据えるために、いかに自らを脇に置くかを理解していました。

 ヨセフの喜びは、自己犠牲の論理にではなく、自分贈与の論理にあるのです。全能なるかたの御子は、大いなる弱さを身に受け、この世に来られます。守られ、保護され、世話を受け、育ててもらうために、このかたにはヨセフが必要です。マリアがそうしたように、神はヨセフを信頼なさいます。マリアはヨセフに、彼女のいのちを救おうとする姿だけではなく、ご自分と御子とにつねに心を砕く姿を見ておられます。

 その意味で、聖ヨセフが教会の保護者ではないはずがありません。ヨセフは教会を守り続けることで、御子とその母を守り続けており、わたしたちもまた、教会を愛することで、御子とその母を愛し続けるのです。



祈り

あがない主の保護者、おとめマリアの夫よ。

神はあなたに御子をゆだね、マリアはあなたを信頼し
キリストはあなたによって養われ、大人になりました。
聖ヨセフよ、
父親としての姿を私たちに示し、
日々の歩みを導いてください。
恵みといつくしみと勇気が与えられ、
すべての悪から守られるようお祈りください。ア-メン

教皇フランシスコ 使徒的書簡 「父の心で」より 


2025年2月16日日曜日

希望の巡礼

 


   日頃、高齢のために教会に行かれない姉妹も一緒にさいたま教区の巡礼教会である太田教会へ2月1日土曜日巡礼に行ってきました。お御堂に入るとルーチェが迎えてくれました。コーラスを練習していた聖歌隊の信者さんと神父様の大歓迎を受けました。希望の巡礼者の歌を教わりながらコーラスの方々と歌いました。"聖年の祈り"を唱え、聖年がもたらしてくださる恵みを心を込めて祈りしました。

   太田教会のスタンプを押してもらって共に元気でこの"聖年"という節目に立ち会うことができたことを神に感謝しました。









2025年1月30日木曜日

希望は欺かない❕

希望は欺かない




 皆様、2025年は神様から特別な恵みが与えられる聖年です。聖年とは、一体どのようなものなのでしょうか?

カトリック教会では、聖年は、神の特別な恵みと赦しが与えられる特別な期間とされています。およそ25年ごとに巡ってきます。この期間中、カトリック信者は、罪の罰を完全に免除される「全免償」を受けることができます。聖年の期間は、イベントや巡礼、そして慈悲と和解を深めるための様々な活動で彩られます。

教皇フランシスコは、ローマの大聖堂にある聖なる扉を開くことで、聖年の始まりを告げます。これは、神様の救いの扉が開かれたことを象徴する重要な儀式です。聖年の間には、信仰を深め、キリスト教の生活を実践するための様々な祈りと活動が行われます。

さて、ここからは、教皇フランシスコの通常聖年公布大勅書の一部をご紹介いたします。ぜひご一読ください。そして、最後に聖年のための祈りを掲載しますので、共に祈りましょう。

 


 1 「希望はわたしたちを欺くことがありません(Spes non confundit)」(ローマ5・5)。使徒パウロは希望のしるしの名のもとに、ローマのキリスト者の共同体に励ましを与えます。古来の伝統に従って教皇が25年ごとに宣言する、次の聖年の中心となるメッセージも希望です。わたしは、聖年を過ごすためにローマを訪れる人たちと、使徒ペトロとパウロの町に行くことはかなわずとも部分教会において聖年を祝う人たち、そうしたすべての希望の巡礼者のことを思います。すべての人にとって聖年が、救いの「門」である主イエス(ヨハネ10・7、9参照)との、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように。教会は、主イエスを「わたしたちの希望」(一テモテ1・1)として、いつでも、どこでも、すべての人にのべ伝える使命をもっています。

 すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望はよいものへの願望と期待として、一人ひとりの心の中に宿っています。けれども将来が予測できないことから、相反する思いを抱くこともあります。信頼から恐れへ、平穏から落胆へ、確信から疑いへ―。わたしたちはしばしば、失望した人と出会います。自分に幸福をもたらしうるものなど何もないかのように、懐疑的に、悲観的に将来を見る人たちです。聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。神のことばが、その根拠を見つけるのを助けてくれます。使徒パウロがローマのキリスト信者にあてて書いたものに案内してもらいましょう。


聖年の祈り

天の父よ、
あなたは、わたしたちの兄弟、御子イエスにおいて信仰を与え、
聖霊によってわたしたちの心に愛の炎を燃え上がらせてくださいました。
この信仰と愛によって、
神の国の訪れを待ち望む、祝福に満ちた希望が、
わたしたちのうちに呼び覚まされますように。

あなたの恵みによって、わたしたちが、
福音の種をたゆまず育てる者へと変えられますように。
この種によって、新しい天と新しい地への確かな期待をもって、
人類とすべてのものが豊かに成長していきますように。
そのとき、悪の力は打ち払われ、
あなたの栄光が永遠に光り輝きます。

聖年の恵みによって、
希望の巡礼者であるわたしたちのうちに、
天の宝へのあこがれが呼び覚まされ、
あがない主の喜びと平和が全世界に行き渡りますように。
永遠にほめたたえられる神であるあなたに、
栄光と賛美が世々とこしえにありますように。
アーメン。

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