2025年10月21日火曜日

10月

 


 もう十月になりましたが、皆さんお元気で しょうか。私達もみんな元気で暑い夏もみごとにのりこえ、今は初秋を満喫しています。 どこからか"金木犀"のかおりがして心をなごませています。こちらは高い建物がありま せんので、大きな広い空を見上げて夏の入道 雲とは違ういわし雲の見事さにみいっていま す。今回は心がほっこりするお話しを二つしよ うと思います。どうぞおつきあい下さい。

 双子の小さい姉妹がバスに乗っていました。いつも降りる時の"停車ボタン"を押したくてたまりません 。まず二人でジャンケンして勝った 方が押すことになっています。それなのに負けた方がズルをして押してしまいました。そ うしたら勝った方の子がワッと泣きだしました。 それを見て運転さんは"もう一度押して いいですよ"と言いました。勝った子は泣き やんで"停車ボタン"を押しました。何と優 しい運転士さんでしょう。私も優しい気持 ちになりました。

 もうひとつはかつて大学に通いながら学費 のために朝刊、夕刊を配っていました。ある日配達先のおばあさんから、思いがけず手袋 をプレゼントされました。「寒くて大変でしょ う。でも努力は必ず報われるから」涙があふれました。手袋は大事にとってあります。  

 私達はともすると大きな親切をしようと小 さな親切をおろそかにしてしまいます。小さ いところに神様がいるのですね。

 一日一日と日が暮れるのがはやくなります。 だんだんと秋が深まってまいります。どうぞ 体調に気を付けてお過ごし下さい。又お会い しましょう。



2025年9月28日日曜日

聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエル大天使の祝日

 皆様、おはようございます。 9月29日は、カトリック教会にとって特別な日です。聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエルという3人の大天使を記念する祝日です。

もともと、教会はこの日を「聖ミカエルの祝日」として祝っていましたが、1970年の典礼改革によって、聖書に登場する他の二人の大天使、聖ガブリエルと聖ラファエルも一緒に記念することになりました。

ミカエル、ガブリエル、ラファエルという名前には、それぞれ深い意味があります。

  • ミカエルは「誰が神のようであろうか」を意味し、神の軍勢を率いて悪魔と戦う、教会の守護者として知られています。


  • ガブリエルは「神はわが力」を意味し、受胎告知を通じてイエス・キリストの誕生をマリア様にお告げになった、神の使者です。


  • ラファエルは「神は癒される」を意味し、トビト記に登場する旅人の守護者、そして人々の心身を癒す天使として崇敬されています。

天使は、私たちの目には見えない存在ですが、神の栄光をたたえ、神の意志を伝えるために創造された霊的な存在とされています。彼らは、神と私たち人間との間にあって、神の愛と恵みを運び、時に私たちを守り、導いてくださる存在なのです。

横浜教区のラファエル梅村昌弘司教様、うちの修道院のシスターガブリエラ、そしてこの日に霊名の祝日を迎える方々のために特にお祈りしています。

大天使たちの恵みが、皆様の上に豊かにありますように。

2025年7月15日火曜日

感謝

 


夏まっ盛りですがみなさんいかがおすごしでしょうか。

 私達修道者は年に一回黙想しなければなりません。まさに恵みのときであります。今年も二つのグループに分かれて行われます。場所は軽井沢修道院です。いつもは7月と8月なのですが今年は6月でした。6月の軽井沢はまだ寒く、軽井沢の姉妹から上着をかりました。そうこうして始まった黙想会、まず振り返えりからはじまり、自分のからをやぶるためのステップが4まであり神父様の指導のもとにすすんでいきました。そして最後に“感謝”にたどりつきました。

 「感謝は霊的な実りです。感謝は私たちの視点を欠乏から豊かさに移動させ、与えられた独自のおくりものに気づかせます。感謝を通じて個人は痛ましい経験の中でさえ神のいやしの手を実践してそれらをより深い愛、より強い希望、より広い信仰のための心の浄化の機会として理解できるようになります。すべては恵みであることを一歩ずつ理解していくために、私達は感謝しながら感謝する人に成長していくのです。」とおっしゃいました。そして「感謝の心を育てる効果的な方法は、自分に向けられた神の祝福を意識して、くりかえし数えることです。つまり自分の人生の中にある良いもの、健康、友人、美しい日没、小さな親切を探し出し、それに感謝することです」とおっしゃいました。

 最後までお読みいただきありがとうございました。何かお役にたったでしょうか。これからますます暑くなりますが、体調など崩されませんようお過ごし下さい。又、お会いしましょう



2025年6月1日日曜日

6月 イエズスの御心の月

 

DILEXIT NOS

彼は私たちを愛された

教皇フランシスコ使徒的勧告

キリストの御心の人間的および神的な愛について

 

キリストの御心は、その人格の中心を象徴し、そこから私たちへの愛が湧き出ます。

私たちの信仰の源、キリスト教の信念を生かし続ける泉なのです。

 

キリストがどのように私たちを愛しておられるのか、彼は多くを言葉で説明しようとはされませんでした。その愛は、彼の行いによって示されたのです。彼の行動を注視することで、たとえ理解しにくいとしても、彼が私たち一人ひとりをどのように扱っておられるのかを知ることができます。ですから、私たちの信仰が彼を認識できる場所、すなわち福音書へと目を向けましょう。

 


福音書は、イエスが「ご自分の民のところに来られた」(ヨハネ 1 11 節)と伝えています。その「ご自分の民」とは、私たちのことです。なぜなら、彼は私たちを見知らぬものとしてではなく、ご自身のもの、大切に、愛情深く守るべき存在として見なしておられるからです。彼は私たちをご自身のものとして扱われます。それは私たちが彼の奴隷であるという意味ではなく、彼自身も「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」(ヨハネ 15 15 節)と否定されています。彼が示されているのは、友人としての相互の繋がりです。彼は来られ、あらゆる隔たりを越え、私たちの存在における最も単純で日常的な事物のように、私たちに近づいてくださいました。実際、彼には「インマヌエル」、すなわち「神は私たちと共にいる」、私たちの人生の傍らにいる神、私たちの中で生きる神というもう一つの名があります。神の子は肉となり、「ご自身を無にして、奴隷の身分を取られました。」(フィリピ人への手紙 2 7 節)彼の行動を見ると明らかになります。彼は常に探し求め、私たちに寄り添い、絶えず出会いに開かれています。

主は優しさという美しい術をご存知だからです。神の慈しみは言葉だけで私たちを愛するのではなく、近づいて、私たちに寄り添いながら、ありったけの優しさをもってその愛を与えてくださるのです。

私たちは多くの偽り、攻撃、失望によって傷つけられてきたために、信頼することが難しいと感じることがあります。そのような私たちに、彼は耳元でそっと囁きます。「勇気を出しなさい、わが子よ」(マタイ 9 2 節)。「勇気を出しなさい、娘よ」(マタイ 9 22 節)。恐れを乗り越え、彼と共にいるならば何も失うものはないと気づくことが大切です。疑心暗鬼になっていたペトロに、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、なぜ疑ったのかと言われた」(マタイ 14 31 節)。恐れることはありません。彼が近づき、あなたの傍らに座るのを許しましょう。多くの人を疑うことがあっても、彼を疑うことはありません。そして、自分の罪のために立ち止まる必要はありません。多くの罪人が「イエスと共に食事をしていた」(マタイ 9 10 節)ことを思い出してください。イエスは誰に対しても憤慨されなかったのです。

ファリサイ派の人々が、身分の低い者や罪人と見なされる人々へのイエスの親しみを批判したとき、イエスは彼らに言われました。『わたしは憐れみを求めるが、いけにえを求めない』(マタイ 9 13 節)。

その同じイエスが今日、あなたがご自身の光であなたの存在を照らし、あなたを立ち上がらせ、ご自身の力であなたを満たす機会を与えてくれるのを待っておられます。なぜなら、死ぬ前に弟子たちに言われたからです。「わたしはあなたがたを孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来る。間もなく、世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」(ヨハネ 14 18-19 節)。彼は常に、あなたの人生の中でご自身を現し、あなたが彼と出会えるような方法を見つけてくださいます。

福音書の多くの箇所は、イエスが人々のこと、その不安、苦しみに全心を注いでおられる様子を示しています。例えば、「群衆を見て、イエスは深く憐れまれた。彼らは疲れ果て、打ちひしがれていたからである」(マタイ 9 36 節)。私たち皆が自分たちを無視し、自分たちの身に起こることに誰も関心がないように感じ、誰にとっても自分は重要ではないと思える時でさえ、彼は私たちを大切に思ってくださっています。

私たちを気にかけてくださっているからこそ、彼はあなたが抱くどんな良い思いも、どんな小さな善い行いも、ちゃんと分かってくださるのです。

人間として、イエスはこのことを聖母マリアから学ばれました。マリアはあらゆることを注意深く見つめ、「それをすべて心に留めていた」(ルカ 2 19 節、51 節参照)方であり、聖ヨセフと共に幼いイエスに、目を向けることを教えられました。


イエスは私たちの内なる声に語りかけ、ご自身の御心へと私たちを招き入れようとされます。それは、私たちが力と平安を取り戻せる場所へと入るようにとの招きです。「疲れている者、重荷を負っている者は皆、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」(マタイ 11 28 節)。だからこそ、彼は弟子たちに『わたしの中にとどまりなさい』(ヨハネ 15 4 節)と願われたのです。


聖パウロはキリストとの関係を「わたしを愛し、わたしのためにご自身を献げてくださった」(ガラテヤ 2 20 節)と表現し、自分が愛されていると知ることが最大の確信だったと語っています。

 



その御心を貫かれ、燃えるような愛を持つキリストは、愛ゆえにベツレヘムで生まれ、ガリラヤを歩きながら癒し、優しく触れ、憐れみを注ぎ、十字架上で両腕を開いて私たちを最後まで愛し抜いた方、まさにその方です。そして、復活し、私たちの間で栄光に満ちて生きているのも、同じキリストなのです。

無限なる神の御子は、人間の心で私を愛することを望まれました。キリストの御心の中に身を置くことで、私たちは、私たちと同じような愛情と感情に満ちた、人間的な心によって愛されていると感じるのです。

 

主イエス・キリストよ、どうかあなたの聖なる御心から、私たちが互いに傷つけ合った心の痛みを癒し、愛と奉仕への渇望を燃え上がらせ、正義と連帯、そして兄弟愛に満ちた世界へ、共に歩む勇気を与えてください。


2025年5月31日土曜日

マリア様 おめでとう❣

 美しいマリア





・全ての正義、恵み、美は彼女の内にある。彼女の美しい魂は天国の花壇。 彼女の姿はまるで詩、天使たちも彼女を見る時の畏敬の念は十倍も深い。 きっと、神の目に彼女はあらゆる天使的な美を超えているに違いない。


・私は母であるより先に神の娘、はしためです。私の平静さは神のおぼしめしを行うところにあります。私の明るさは神のおぼしめしを行うところから来ます。

人間であれば一番知恵深い人であっても間違った望みを課す場合がありますけれども神の場合は違います。私たちを助けられるのは無限の手段を持っていらっしゃる神しかないのです。

私は無条件で私自身を神に捧げました。このことで私はどれ程の苦しみが来るのかを知っていましたのに。その時、預言者たちは私の知恵の前に在り、神の光が予言者たちのことばをはっきりわからせてくれました。天使に伝えた私のことば「なれかし」によって、母となるものは耐え忍べる最大の苦しみに自分自身を捧げなければならないと知りました。

いつも、あなたは谷に咲く百合、かぐわしいバラ、美しいオリーブ、豊かなぶどうの木、強いぶどう酒と、拝領するにふさわしい心の人に死から守るペンを下さいました。


聖ヨハネ

まだ命のない横になったマリアの体が天使たちの群れに支えられて天の天へと昇っていく。マリアが太陽の光に包まれて霊魂を体から離す脱魂状態が終わって、その足で立つ。天へと真っすぐ昇るマリアをみる。ホザンナを歌う天使たちに囲まれているが、もう支えられてはいない。キリストはえも言われぬ美しきで輝かしく光りながら天から真っすぐ下って母に会うと胸に抱きしめ一緒に二つの大きな星より輝いてもと来たところに引き返している。


復活されたイエスのことば

私を宿して、育て生きる時も死ぬ時も私を助けて下さったことを感謝しています。私はあなたの祈りが私にやってくるのを感じていました。その祈りは苦しみの時の私の力、この世での、またこの世のかなたまでの私の旅の仲間でした、 その祈りは十字架まで、リンボまで、私と一緒に来ました。


その祈りは死ぬことのない宝殿、私の天に導くため僕たちを迎えに行っていた大司祭の前に煙る香でした。その祈りは御父と聖霊に見られ、又開かれ、父と子とは天国で生まれた最も美しい花を見、最も優しい歌を聞いたかのように微笑みました。

貴女は生きている天国であり、地上において三位一体を担う者であり司祭職の女王であります。


そうしてキリスト者の母であるがために教会を聖とするものであるわけです。

2025年4月6日日曜日

ただひとつのことを




 先日はひえびえとした"花冷え"の日でした。各地の桜のニュースが入り、いよいよ寒かった冬ともお別れのようです。
 お隣に大きな桜の木があり、毎年、私たちを楽しませてくれていたのですが、害虫の被害にあい六年前に切り倒れてしまいました。とても淋しくその様子を見ていました。
しかし、間もなくそこに桜の笛木が植えられました。しっかりと根づき、おととしあたりから、一輪、二輪と花をつけるようになりました。そして、今年はこんなに見事に花を咲かせてくれました。この花冷えの中でしっかりと立って私たちを元気づけてくれています。
本当にありがとう。
 この四旬節はまた、別れと出会いの季節でもあります。こちらの修道院も一人の姉妹をお迎えしました。元看護師でとても心強いです。 
 みんなで群馬のキャラクターである群馬ちゃんの絵を持って歓迎しました。とても喜んでくれました。大先輩のシスターが歓迎の言葉をのべて、“ただ一つのことを”という歌を歌いました。“主よ、私はあなたにただひとつのことをたのみとして求める、ただひとつのことを、生きている限り、ずっと主の家に住み、あかつきとともに目覚め、主のうつくしさを仰ぎみることを♪♪