2024年11月3日日曜日

私たちの歩みは聖性を目指しているでしょうか

 

 教皇フランシスコ様のメッセージに耳を傾け、聖性とは賜物であり、歩みであることを心に留めましょう。


 教皇様の真福八端の聖性のポイントを考えてみましょう。

    ー貧しさを心に待つこと、それが聖であることです。

  ー謙虚に柔和に応じること、それが聖であることです。

  ー人と共に涙が流せること、それが聖であることです。

  ー飢えと渇きをもって正義を求める、それが聖であるとです。

  ー思いやりの心で目を向け行動する事、それが聖であることです。

  ー愛を曇らせるものの一切ないまっさらな心を保つ、それが聖であることです。

  ー周囲に平和の種をまくこと、それが聖であることです。

  ー日ごと福音の道を、それに苦しめられることになっても、受け入れること、それが聖で

             あることです。


     私たちの生活の中で少しでも実行に励みな がら、ご一緒に聖性の道を

    歩みましょう。


  






2024年10月10日木曜日

10月宣教の月




収穫は多いが、働く人は少ない。だから、刈り入れのために働く人を送って下さるように、収穫の主に祈り求めなさい。(マタイ93738


天の御父よ、あなたのぶどう畑に働く人を多く遣わしてください。

私たち、私をお遣わしください。

福者 マドレ・マリア・イネス・テレサ





洗礼を受けた方々は皆、宣教の使命を頂いています。この使命は福音的です。なぜなら、イエス様がそうおしゃっています。「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を宣べ伝えなさい」。マルコ1615

ほかの箇所でも「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」。ヨハネ2021

 


私たちは、この呼びかけに応える必要があります。神の御国を伝えるために、優れた業をしなくてもいいです。一人ひとり誰であれ、置かれているところでイエス様の証人になりましょう。

 

福者 マドレ・マリア・イネス・テレサは、修道会の娘に単純な生き方を教えてくださいました。

 

宣教師であること、これが私たちの最も貴重な権利です。それは、人生のいかなるときにも
決して忘れてはならない、義務であり、権利です。

宣教師になるために、どのように...必要であれば命をささげるまでに!どこで...どこでも!いつ...いつでも!どこまで...従順によって。

娘たち、犠牲を通して苦しみの中で、死に至るまで宣教師でありなさい。しかし喜びの中にも、日々のエウカリスチア、祈り、礼拝、使徒職、様々な仕事の中で、眠っている時でさえも、食事を頂くときも、息をする時も、私たちの命が分刻みで心臓の鼓動ひとつひとつのうちに消費されていく中で、宣教師でありなさい。マドレ・マリア・イネス・テレサ



イエス様に全てを捧げて、多くの人々の幸せのために心から祈り、いただいた恵みに感謝することは、宣教につながって世界の向こう側まで行き渡ると思います。







あなたも宣教的の魂をもっています。小さなことでも大きな愛をもって行うならそれで十分、神様にとって尊いものです。

 

 

 



マリア様は一番忠実な弟子でした。宣教師の模範を示してくださいました、彼女が私たちの
歩みを照らし続け、励ましてくださるように祈りましょう。

 

 

全てはイエス、マリア、霊魂の救いのために。

2024年6月1日土曜日

6月 イエスのみ心の月


人々をあれほど愛したみ心をみなさい。

人々のために自らを与え尽くすあらゆる方法をとりました。そして、多くの人から受けたのは、忘恩とさげすみの仕打ちだけでした。それは、わたしが受難の時受けた全ての苦しみよりも、もっとわたしを苦しめます。

(聖女マルガリタ・マリアへのイエスの言葉)

 





マドレ・マリア・イネスは、イエスのみ心に対する深い信心を持っていました。彼女はどんな時でも主に信頼しました。彼女は病床で、こう言っていました。

「神に信頼することは、主が私にくださった一つの恵みだと思います。心の底から、忠実に、本当に、信頼の中に生きること以上に甘美な生き方はありません。なぜなら、神は全能、愛そのものでいらっしゃるからです。けれども神は第一に憐れみの方です。全能者として、また、その他の全ての属性をお持ちではあっても、それら全てに勝るものは、その憐れみ深さなのです。

また、マドレ・マリア・イネスの書き物の中でこのように言っています。

イエスの聖なる御心、私はあなたに信頼します!

というのが、今もいつも、あらゆる瞬間、特に困難な時、しかし順調な時でさえも、常に途切れることのない、私の魂の神への叫びです。

 

イエスのみ心よ、あなたに信頼します!


 

それを言う時に、私が待ち望むすべての事、彼にどれほど信頼しているかという事をすべて言うのです。それで私も彼も満足します。貧しい人の信頼は彼にとって喜ばしいことです!

 

キリストご自身が確約されたとおり、キリストのみ心を奪う霊魂とは、信頼する霊魂であることをよく考慮しなさい。

(福者マドレ・マリア・イネスの著作より)




わたしたちを愛である神へと導くのは信頼、ただ信頼だけです。        (幼き聖テレジア)


今月、イエスの愛に感謝しましょう!

そして祈りましょう!

柔和謙遜であるイエスのみ心、

わたしたちの心をみ心にあやからせてください

2024年5月7日火曜日

5月は「マリア様の月」

 

   5月は「マリア様の月」ということを初めて知ったのは、修道会入会の年でした。それまでの一般使徒としての5・6年間にはマリア様のことを耳にしたことがなかったので、とても新鮮な心でマリア様の月を過ごしたことを思い出します。寒さから解放され、小鳥の声が聞こえはじめる軽井沢の初夏の季節、母としてのマリア様の深い愛をさわやかに感じました。その後、長い年月幼稚園に関わっていましたので。毎年、5月には「マリア祭」を行いました。


子どもたちが白いドレスを着て、ベールをかぶり夢を見ているような瞳をして、”アヴェ・マリア”の祈りをし、マリア様にお花をささげました。子ども一人ひとりのこれからの長い生涯を、マリア様が清く守ってくださるよう祈る5月でした。



             




2024年3月25日月曜日

シスターの俳句 「春」「薫風」

「わが故郷(こきょう)春は短し軽井沢」

季語 「春」

(鑑賞)作者の故郷は長野市である。ここでは心の故郷の軽井沢を詠んでいる。修道生活を始めたころ、彼女は軽井沢に住んでいたことがあった。今も4月ごろに時々雪が降ることがある。彼女の時代にはもっと長く厳しい冬だっただろう。4月末から5月にかけて花が一斉に咲く。その後梅雨があり暑い夏もある。彼女は自分の人生を重ねていたのだろうか。今は病床の身である自分にも短い春があった。しかし60年たった彼女の心には、しっかりと深く刻まれた暖かな記憶として残っていたのである。今は天の故郷でとこしえの春を神様と共に過ごしていることだろう。



「祖母の手をとり薫風の善光寺」

季語 「薫風(くんぷう)」…風薫るの傍題

(鑑賞)これは夏の季語だが、彼女の故郷の句なのでこれを紹介したい。私も善光寺に行ったが、境内から本堂の階段は思いのほか高い。思わず人の手を借りたいほどだ。優しい彼女は祖母の手を取り、階段を上り下りしたのだろう。この句は下りる時か。本堂から境内へ下りる時、緑のなんとも言い難い風が頬に触れた。すがすがしく心地よい風だ。彼女と祖母もこのように心が通い合った関係だったのかも知れない。優しい風が心を吹き抜けていく。

2024年3月16日土曜日

シスターの俳句


「小鳥達 いかなる味ぞ 春の水

 (鑑賞)水溜まりでしょうか。小鳥たちが次々と水を飲みに来ます。小枝で遊んでは、また飲みに。何度も何度も飲みに来る小鳥たちを見ていると、作者もその水を飲んでみたい気持ちになりました。春の水はきっと心まで温かくしてくれるのでしょうね。 


「幾千の桜一輪手にとって」  

 (鑑賞)満開の桜を眺めていると、ひとひらの花びらが手に落ちてきました。なんて愛らしいのでしょう! 作者の優しい思いが感じられます。


 この俳句は宣教クララ会のシスターコンスエロ服部が書いたものです。


 御聖体の宣教クララ修道会は1951年6月22日にメキシコで創立され、同年10月23日に早くも日本に4人の宣教女が派遣されました。そして、約1年後の1952年10月26日に2人の日本人が入会しました。シスターコンスエロ服部美津枝は、その一人です。


 シスター服部は、修道生活を望んで修道会を探していましたが、出身教会の司祭の紹介で宣教クララ会を訪問し、そのまま入会したそうです。言葉も通じない中、辞書を片手に何とかコミュニケーションをとったそうです。日本に来たばかりの修道会はとても貧しく、体の弱いシスター服部には、色々な困難もあり、退会を考えたこともありました。

 ご両親も心配して、何度も連れ戻そうとしたようです。しかし、日本に訪問した創立者に出会った時、創立者の人柄に魅せられ、修道召命は固まっていきました。修道会の日本での基礎を作る役割を担い、その後1970年にローマに派遣されました。


 1988年に帰国し、2019年1月22日帰天するまで、再び日本での役割を誠実に果たし、晩年は長年にわたり病床にあり信仰と忍耐の模範を日本の会員に与えてくれました。病床にあったシスター服部の俳句をこれから徐々に紹介したいと思います。

2024年2月23日金曜日

希望の火を守り続ける

 

主の奉献の祝日


     教皇フランシスコは2日、聖ペトロ大聖堂で「世界奉献生活の日」のミサを捧げられ、世界中から集まった男女修道会の代表たち、そしてすべての男女修道者に対して、「聖霊によって動かされることに常に心を開き、福音に従って神への切望に改めて目覚める習慣を育てるように」と促された。

 教皇はミサ中の説教で、「内なる生活を守り、福音に従って、命の光と希望であるイエスを抱く」ことで、「辛抱強く、心の警戒を怠らず、粘り強く祈りながら待ちなさい」と呼びかけられた。

 


*警戒と忍耐

  そして、預言者マラキによって告げられた主の到来の預言的な予感、つまり「あなたがたが求めている主は突然、その神殿に来られる。あなたがたが喜びとしている契約の使者が、まさに来ようとしている」(旧約・マラキ書3章1節参照)を振り返りながら、聖霊によって啓発され、神を認識するシメオンとアンナの姿に注意を向けられた。

 「主は、マリアが神殿に入るときに腕に抱いている子供のようです。シメオンとアンナという高齢者夫婦が辛抱強く待ち、霊的な警戒を怠らず、粘り強く祈り続けていた姿を観想するのは、私たちにとって良いことです。 彼らの心は永遠の炎のように、目覚めたまま。歳は取っていても、心は若いのです」と強調。

 「シメオンとアンナが希望の炎を守り続ける力は、気を散らすものに満ちた今の世界で、期待を込めて神に目を留め続けるようキリスト教徒に教えています。人生の旅路の中で、彼らは困難や失望を経験しましたが、敗北に屈しませんでした」と指摘された教皇は、「彼らはその子を見つめながら、時が来たこと、預言が成就したこと、唯一の神がおいでになったことを知ったのです。自分たちが切望していたメシアが到来したのです」と説かれた。

 さらに教皇は、「主を待ち望み、目を覚ましていることで、彼らは主の到来を歓びをもって迎えることができる」と強調される一方で、自分自身のことにとらわれ過ぎ、日常生活の忙しさに追われ、神の絶え間ない臨在を認識できないようになりかねない、キリスト教徒の現状に懸念を示された。

 そうすることは「 魂を麻痺させ、失望と諦めの暗い隅に希望を閉じ込めてしまう」とされ、「心が眠ってしまわないように」と警告された。そして、「激しい生活リズムのせいで、心を開いて神の啓示と臨在を待ち望むことの重要性を忘れてしまっていないか、自問するように」と勧められた。

 

*待つことに障害となるもの

  教皇は続けて、「待つ」ことの障害となるものを2つ挙げられた。

  1つ目は「内なる生活の軽視」であり、それによって「疲労」が「驚き」に取って代わり、「苦い思い」が「感謝」の影を覆い隠してしまう、と指摘。 2 つ目は、「スピード、行動主義、目先の満足の追求を特徴とする世俗的なライフスタイルに適応すること」とされた。

 そして、「このような今の世界の状況、異教の時代において、『待つ』ことは、スピードを緩める強い意志が必要になる。『沈黙』が失われたところで『待つ』ことは容易ではありません。なぜなら、それには健全な受動的な姿勢、自分のペースを緩める勇気、活動に圧倒されない勇気、神の行動のために自分の中に余地を作る勇気が求められるからです」と説かれた。

  また「待つ」ためには、「失われた恩寵を取り戻すこと、つまり、熱烈な『内なる生活』を通じて、礼拝と祈りと聖霊によって養われる、喜びに満ちた謙虚さ、沈黙の感謝の精神に戻ることが必要です。神への憧れが再び目覚めるように」と語られた。

  教皇は続けて、「世俗の精神が、私たちの教会共同体、教会生活、そして私たちの個人的な歩みに入ってこないようにしなければ、私たちが実を結ぶことはありません」と注意され、「待つ」精神を養うよう呼びかけ、 「祈りと日々の(主に対する)忠実さによって成熟することで、『待つ』ことは、私たちを『効率性の神話』『人目に付く行為への強迫観念』、そして何よりも『神を pigeonholing(棚上げする)』振る舞いから解放します。なぜなら神は常に予測できない方法で、私たちが選ぶか、選ばないかに関係なく、お現われになるからです」と説かれた。

 最後に教皇は、「 シメオンに倣い、私たちも、新しさと驚きの神である御子を迎えに行きましょう。 主を迎えることで、過去は未来に開かれ、私たちの中にある古いものが、主が目覚めさせた新しいものに向かって開かれるのです」とされ、 「私たちも休むことなく、シメオンとアンナのように、聖霊によって動かされましょう。 彼らのように、未来に期待を持って生き、内面の生活を守り、福音に従って生きるなら、私たちは人生の光であり希望であるイエスを抱くことができるでしょう」と語られて説教を締めくくられた。