2021年5月17日月曜日

マリア様への思い


 

 宣教クララ会の創立者、福者マドレ・マリア・イネス・テレサは本当にいつでもマリア様と共にすべてを行った方です。Vamos María(マリア様、さあ始めましょう、行きましょう)」というのが自然と口をついて出た言葉でした。グアダルペのマリア様から、個人的なお約束を受けたくらいの方ですから、どれほどマリア様と親しかったかがわかります。 

 メキシコから日本に来ている若いシスターも何か始めようとするときに、「Vamos María」と口ずさんでいます。若い時から、マリア様に親しんで、ともに歩んできたからでしょう。

私がマリア様のことを思うときは、なんだか願い事をするときが多いと感じます。何かを始める時、特に自信がない時に「マリア様、助けてください」と願います。また、お台所で煮物などをしていて「味がどうも・・・」というようなときに「マリア様どうぞ味を直してください」というように。自分では、もうこの味はどうにもならないと思っていても、食事の時間に、周りの人が「おいしい」と言ってくれて、自分でも恐る恐る口に入れてみると、「おや?」と思うことが何度もありました。

そのほかにイエズス様にこんなことを願うのはと、気が引けるというようなときにもマリア様になら願えます。こう考えてみると、やはりお母さんだからということなのでしょう。

メキシコの方たちとはだいぶ違いますが、それでもお母さん、マリア様に対する、思いはそれでいいのかなとも思います。

2021年5月9日日曜日

聖母マリアと召命のプレセント(その②)


 違う道を探そう。でも忘れられない。・・・そんなこんなで8年が過ぎたある夜、「ぐずぐずしているうちに時間は過ぎてしまう。修道院だって年齢制限があるかも知れない!」 とシスターTの心が高ぶり、修道女になるために洗礼を受けることを決心しました。そして教会の入門講座で勉強始めたのです。1年間の勉強で、”小説の主人公の生き方はイエス様が教えた生き方だったのだ” “主人公の彼女を通して主イエス・キリストに魅了されたのだ” とシスターTは気づいたのでした。 

 洗礼を受ける3か月前、知り合った信者のご婦人に、“修道女になりたい望みがあるが修道女の知り合いもなくどうやって探したらいいか考えている” とお話ししたところ、次にお会いした時本会の“召命黙想会”の案内が載っているカトリック新聞の切り抜きを持ってきてくださいました。シスターTはそれに申し込みました。そこで初めて出会った修道女は明るく気さくだったので安心しました。参加者との交流もありとても和やかな雰囲気の中行われた黙想会初体験の印象はとても良いものでした。他の黙想会にも参加しました。黙想会に参加する度にイエス様のことを想いながら祈ることに心地よさを感じ、世俗のことはむなしいことに思えました。自分の全てを賭けてイエス様に付いて生きていきたい望みは揺るぎないものであることを徐々に確信していくことができました。





  ところが、また迷いが始まりました。召命黙想会で知り合った参加者が話していた「私は呼ばれているような気がする」というフレーズ、ずっと聞き流していたのに、急に気になりはじめたのです。 “イエス様が夢に出できたこともないし、ささやきを聞いたこともないので、私は呼ばれているような気がしない!” ただ私自身の望みを実現したいために押しかけて行くことをイエス様は喜んでいないのでは? そんな考えが頭から離れず心が揺らぎ始めました。先のご婦人にそのことをお話しすると、指導を受けるためにある神父様を紹介してくださいました。霊的指導を引き受けてくださった神父様のお答えはこうでした。「“ずーっと気になってしょうがない”  “忘れられない”  そのことを   “呼ばれている”  というのです。」 その言葉を耳にし、迷いから解放されました。


 本会の召命担当の方の導きに助けられて入会に至ったのは、あの小説との出会いから15年後の40歳の時でした。マリア様の「即答」には程遠いシスターT の「はい」でしたが、それから16年経った今もシスターTは、神様からプレゼントされた修道召命と、それを導き育んでくださった方々に感謝しています。そして召命は入会して終わりではありません。日々神様への「はい」を果たすためには自我との戦いがあります。シスターTは度々自分の弱さに負けますが、その度に新たに生まれ変わる力をイエス様から頂いています。呼んでくださったイエス様に少しでも喜んでいただける修道女になることが唯一の望みです。 

 


イエス様の呼びかけかたは多種多様です。

       5月、マリア様の月。マリア様の召命を想い巡らしながら、

「わたしはどうかな?」と少し考えてみてはどうでしょうか。

天使ガブリエルに代わる“サイン”に気づくかもしれません


2021年5月2日日曜日

聖母マリアと召命のプレセント(その①)

5月はマリア様の月。

 私たちのお母さん、大好きなマリア様を讃え特にお祈りを捧げる月です。 マリア様は、預言者によって約束されている救い主が来られるのを持ち望んでいました。そんな時に天使ガブリエルから‘救い主の母となる’神のお告げをお受けになったのです。私たちがマリア様に惹かれる理由はたくさんあります。中でも、先々の心配を抜きにして神様から受けた使命に「はい」と即答した年若いマリア様に感動しない人はいないでしょう。
 この神様から受けた使命のことを「召命」といいます。一般的に司祭、修道生活への神様からの招きのことをいうようですが、広い意味で 結婚、独身生活、職業など、各自に神様から与えられた使命のこともそういえます。
 さて、マリア様の場合のように天使ガブリエルから「あなたの召命は・・・」と伝えていただけると分かりやすいのですが、そうはいかない人間の私たちは 自分の召命は何なのか分かりかねて時間を費やしてしまうことがあります。40歳で入会した本会のシスターTもそんな一人でした。 これから シスターTの召命について2回に分けて紹介したいと思います。
 

 シスターTは東北のある小さな町で生まれ育ち、周りには教会もなく、司祭、修道者の姿を目にしたこともなく、信者の知り合いも一人もおらず、キリスト教とは全く関わりのない生活をしていました。そんなシスターTが、福祉施設に勤めて数年後、バザーの為に頂いた古本の整理に駆り出された後、『がんばったから』と何か1冊古本をもらっていくよう一緒に仕事をしていた本好きの先輩から勧められました。中々決められずにいると、「これなんかどうだ?」と渡されたのが 曽野綾子著 「時の止まった赤ん坊」でした。 早速その夜から読み始めました。 「上」を読み終えて「下」に進み、そしてまた「上」「下」・・・まるで小説に吸い込まれてしまったような数日が続きました。この小説はマダガスカル島にある修道院が経営している貧しい産院で産婆として働く修道女(入江茜)を主人公にして描かれた作品でした。読者をこれ程に感動させる主人公は「全ては、神様のためにやっていること」と言います。「神様のため?」 よく理解できませんでしたが、なぜか、全く無縁だった修道女の存在が身近に感じられたのです。 「なんて素敵な生き方だろう。私も彼女のように生きたい!」と思ったのでした。シスターT25歳になったばかりの頃の事でした。でもその望みを否定する考えが次々に浮かびます。“信者でもないのに修道女になりたいなんて、一時の憧れにすぎないに決まっている。” ”自由気ままに生活している私が神様のために人生を捧げるなんてできるはずがない。“etc・・・そこでシスターTは”海外ボランティア“に行くことにしました。人生を全て捧げるのは難しいけど2年間なら捧げられると思ったのです。それが終わったらもう修道女のことは忘れているだろうと考えていました。
 

海外ボランティアから帰ったのは30歳の時。まだ修道女への想いは消えていませんでした。出会ったカトリック信者の方に「実は修道女に興味がある」と話すと、それならば洗礼を受けなければと、ごミサに誘って下さるので何度か参列したのですが、そのごミサがつまらないと感じられました。困ったことに、ごミサを理解するために勉強したいという望みも湧き上がらなかったのです。シスターTにとって『修道女になる』ということと『カトリック信者になること』つまり受洗することは全く別物だったのです。これは修道女になりたい望みはもうあきらめた方がいいという決定的な気づきだとシスターTは思いました。  
 ・・・でも気になる でも・・・。 

2021年4月21日水曜日

マドレ・マリア・イネスの列福記念日




マドレ・マリア・イネスの列福記念日

2012年4月21日

 

2012年4月21日に、メキシコのグァダルペ大聖堂において、御聖体の宣教クララ修道会の創立者、マドレ・マリア・イネスの列福式が行われました。大勢の参列者の中には日本からの巡礼団の姿もありました。横浜教区長ラファエル梅村司教様もご参列くださいました。

列福ミサの中でアマト枢機卿様は、次のようにお話しくださいました。

 

マドレ・マリア・イネスは、与えられたすべての力と恵みを「神はすみやかに治められますように」のモットーに従って、キリストのみ国のために自らを捧げました。

グァダルペの聖母は、観想会の一人の修道女を福音の使徒的宣教女に変えました。グァダルペの聖母への愛にかられたマドレ・マリア・イネスは、聖母のみ心に、また、御聖体のイエスと、その慈しみのみ心に、全人類を連れて生きたいと熱望しました。

教会は宣教者を必要としています。マドレ・マリア・イネスは、まさに教会の必要に応えて宣教者を教会に送りました。

マドレ・マリア・イネスの信仰に基づく英雄的行為は、いつも神の御摂理に信頼し、希望し、その眼差しは天国へ、心は聖なるイエスのみ心に浸っていました。彼女の熱烈な使徒的力は、そこから湧き出ていたのでしょう。その徳、たぐいまれな生活は、絶え間ない微笑みで飾られていました。「不快を表したい時の微笑み、いつも微笑むこと、わたしたちが最も苦しい時でも。でも、わたしにとってそれは、たいしたことではありません。なぜなら霊的生活を始めたときから、いつも努力していたことですから。」と彼女は言っています。

今日のお祝いは、聖性のお祝いです。けれども同時に、よろこびのお祝いです。なぜなら、地上において聖人とは、神の微笑みだからです。

 




2021年4月20日火曜日

「主の呼びかけを聞き、識別し、生きる」

 

復活祭の第4日曜日は「良き羊飼いの日曜日」と呼ばれ、召命のために祈る日となっています。教会は、すべてのクリスチャンが、今ここで主の証人となるように召されていることを忘れないようにと呼びかけています。そこで、教皇フランシスコの言葉を通して、私たちの人生に対する神の呼びかけを発見するための3つの基本的なステップを思い出したいと思います。

わたしたちは偶然生きているわけでも、無秩序に連なった出来事の結果として生きているわけでもなく、神の召命の実りとしてこの世に存在し、生きています。

 神はつねにわたしたちに会いに来られ、愛と幸せを切望するわたしたちの思いを受け止め、喜びへと招いてくださいます。一つひとつの召命は、個人としても、教会としても、多様で比類のないものであり、わたしたちは天から呼びかけているそのことばを聞き、識別し、生きなければなりません。そのことばは、わたしたちの能力を活かし、わたしたちをこの世における救いの道具にし、幸福の充満へと導いているのです。

 これらの三つの要素――聞き、識別し、生きる――は、イエスの公生活の始めにも当てはまります。イエスは荒れ野で祈り、試練を受けた後、ナザレの会堂を訪れ、そこでみことばを聞き、御父から託された使命の内容を識別し、自分はそれを「今日」実現させるために来たと宣言したのです(ルカ41621参照)。

聞く

 主の呼びかけは、日々の生活の中で見たり聞いたり触れたりするもののように、はっきりとしたものではありません。神はわたしたちの自由を抑圧することなく、静かにそっと来られます。

 したがって、主のことばと生き方に心の底から耳を傾ける心備えをし、さまざまな出来事を信仰のまなざしで読み解くことを学び、聖霊からもたらされる驚きに心を開く必要があります。

識別する

 イエスは、ナザレの会堂でイザヤ書の一節を読んだ後、ご自分の使命の内容を識別し、救い主を待ち望んでいる人々にそのことを告げます。イエスはその使命のために遣わされたのです。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ41819)。

  そしてわたしたちは、キリスト者の召命にはつねに預言者的な側面があることに気づきます。聖書に記されているように、預言者たちは、回心と希望と慰めのことばを神の名において伝えるために、物的に非常に困窮している人々や、霊的、道徳的な危機にひんしている人々のもとに遣わされます。

 さらには主がどのような場所や手段や状況を通して呼びかけておられるかを交わりの中で見いだすために、わたしたちは今日も識別と預言を切実に必要としています。キリスト者は皆、いのちの「内面を読み取る」力をはぐくみ、主がどこで、どのようなかたちでご自分の使命を受け継ぐ者となるよう呼びかけておられるかを見極めなければなりません。

 55回「召命のための世界祈願日」の教皇メッセージより抜粋

 


 続いて 第2部は

主の呼びかけを生きるとういう テーマを 深めていきましょう。


2021年3月24日水曜日

神のお告げの祭日

   



神のお告げの祭日


 

 3月25日は、「神のお告げの祭日」です。

この日、どんなみ言葉を思い浮かべますか? 私は、「Fiat(はい)」という、み言葉を思い浮かべます。

 バチカンの聖ピエトロ大聖堂にある、ミケランジェロ作のピエタ像をご覧になったことがありますか? 本物は見ていなくても、写真などでご覧になったことのある方は多いと思います。十字架からおろされた我が子イエスの亡骸を抱く聖母の像ですが、聖母のお顔が若すぎると感じたことはありませんか?

 亡くなった時イエスは30才を過ぎていたと言われているので、聖母は少なくとも、50才近くになっていたはずです。それなのに、ピエタの聖母は、イエスより若く見えるほどです。不思議に思いませんか? どこかで聞いた話ですが、このピエタの聖母は、お告げの時の聖母なのだそうです。そこには、ミケランジェロの意図があり、それは、彼の信仰表現だというのです。つまり、聖母の「Fiat(はい)」は、ただ、お告げの時だけの「フィアット」ではなく、聖母の全生涯を貫いたものだったのです。

  


2021年3月14日日曜日

愛される父

聖ヨセフ


 もう聖ヨセフの祭日の日が近づいています。その日のために聖ヨセフに対して感謝のきもちで準備しましょう。これから教皇フランシスコの使徒的書簡”父の心で”からの聖ヨセフについて分かち合いたいと思います。

愛される父

聖ヨセフの偉大さは、彼がマリアの夫であり、イエスの父であるという事実にあります。そして、聖ヨハネ・クリゾストモが明言したように『彼は、受肉による救いの営み全体への奉仕に参画した』のです。聖パウロ六世が述べたのは、ヨセフの父性が具体的に表されたのは、『自身の人生を受肉の神秘とそれに結びついたあがないの使命への奉仕、犠牲として捧げたときです。聖家族に対し彼が有していた法的,権限を行事することで、自分自身、自分人生、自分仕事を与え尽くしたときです。家族を愛するという自身の人間的召命を、その身と心とあらゆる能力を尽くした超人的ささげものへと、家族に迎えたメシアへの奉仕の愛へと変えたとき』です。

救いの歴史におけるその役割ゆえ、聖ヨセフは、キリスト者にずっと愛されてきた父です。それは世界中の数多くの教会が彼に捧げられている事実、多くの修道会、信心会、教会グループがその霊性に導かれ、その名を冠している事実、何世紀にもわたり、さまざまな作品がこの方への崇敬をもって作られてきた事実からも明らかです。多くの聖人が彼熱烈な崇敬者となってきました。

イエスはダビデの子孫として(マタイ1・16,20)、預言者ナタンがダビデにした約束のとおりに、そこにルーツをもって生まれることになっていました。聖ヨセフは、ナザレのマリアの夫として、旧約聖書と新約聖書をつなぐ蝶番なのです。



聖ヨセフ、私たちのために祈ってください。