皆様へ
いつもご覧いただきありがとうございます。
今月は「マリア様の月」です。どのような時でも、嬉しい時、悲しい時、マリア様から私たちに優しく語られた「ここにいるのは、あなたの母であるわたしではありませんか」との言葉に信頼してマリア様と共に歩み続けましょう。
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世界病者の日
| ルルドのマリア様 |
「あなたがたの父があわれみ深いように、
あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)
愛の道にあって、苦しむ人の傍らにいる。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
30年前、聖ヨハネ・パウロ二世教皇が世界病者の日を制定したのは、神の民、カトリック医療施設、そして市民社会が、病者と彼らのケアにあたる人々の支援の必要性への認識を高めるためでした。
第30回世界病者の日——―その締めくくりの祭儀は、パンデミックのためにペルーのアレキパではなくバチカンのサンピエトロ大聖堂で行われます―——を通して、病者とその家族への奉仕と寄り添いを深めることができますように。
1.御父のようにあわれみ深く
今回の第30回のテーマとして選ばれた「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)は、まずわたしたちの視線を「あわれみ豊かな」(エフェソ2・4)神に向けさせます。いつだって子らを、たとえ子どもたちが背を向けようとも、父の愛で見守ってくださる神です。まさに、あわれみとは神の別名であり、それは偶発的に生じる感情としてではなく、神のすべてのわざの中に存在する力として、神の本質を表しています。それは強さであり、同時に優しさでもあります。だからわたしたちは、神のあわれみには父性と母性(イザヤ49・15参照)の二つの側面が内包されているのだと、驚きと感謝をもって断言できるのです。神は、父の強さと母の優しさをもってわたしたちの面倒を見ておられ、聖霊によって新しいいのちを与えようと、たえず強く願っておられるからです。
2.御父のあわれみであるイエス
病者に注ぐ御父のあわれみ深い愛をあかしする最高のかたは、神のひとり子です。福音書は実に多くの箇所で、さまざまな病気を患う人とのイエスの出会いを伝えています。イエスは「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、み国の福音をのべ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ4・23)のです。次のような問いがわきます。使徒は福音の告知と病者のいやしのために師から遣わされた者ですが(ルカ9・2参照)、なぜイエスは、使徒の宣教において第一の任務とするほどに病者に対するケアを特別視していたのでしょうか。
20世紀の一人の思想家が、一つの理由を示唆しています。「痛みはまったき孤立をもたらし、まさにこのまったき孤立から、他への訴え、他への嘆願が生まれる」2。病によって肉体のもろさや苦しみを味わうと、心も沈み、不安がつのり、次々と疑問がわいてきます。起きること一つ一つの意味を問い、すぐに答えを得ようとします。これについては、今回のパンデミックにおいて、集中治療室で孤独に末期を迎えた多くの患者を思い出さずにはいられません。もちろん、献身的な医療従事者たちのケアを受けてはいましたが、最愛の家族や、現世での生活でいちばん大切だった人たちとは離されたままでした。だからこそ、御父のあわれみであるイエスの模範に倣って、病者の傷になぐさめの油と希望のぶどう酒を注ぐ、神の愛のあかし人3の存在が重要なのです。
3.キリストの痛みを負うからだに触れる
御父のようにあわれみ深い者となりなさいというイエスの呼びかけは、医療従事者にとって特別な意味があります。わたしが考えているのは、医師、看護師、検査技師、病者の介助や介護のスタッフ、そして苦しむ人のために貴重な時間を割いてくれる多くのボランティアのことです。親愛なる医療従事者の皆さん。愛と技能をもって病者の傍らで務めておられる皆さんの奉仕は、職業という枠を超え、使命となるのです。キリストの痛みを負ったからだに触れる皆さんの手は、御父のあわれみ深いみ手のしるしとなるはずです。皆さんの職業の特別な尊さと、そしてそれに伴う責任とを、どうか心に留めておいてください。
医学の、とくに近年の進歩の恵みを、主に感謝しましょう。新たな技術によって数々の治療法が開発され、患者に大きな利益をもたらしています。古いものから新しいものまで、さまざまな病気の撲滅に貴重な貢献をなすべく、研究が続けられています。リハビリ医療は、その知見と技能を著しく発展させてきました。だからといって忘れてはならないのは、患者それぞれが、その尊厳と弱さを含めて唯一無二の存在であることです4。患者はつねにその人の病気よりも大切で、だからこそ、どのような治療法も、患者の話に、これまでのこと、懸念、不安に、耳を傾けないままなされてはなりません。回復の見込みがない場合でも、ケアはつねに可能であり、なぐさめを与えることはつねに可能であり、病状にではなくその人に関心を示しているという寄り添いを感じてもらうことはつねに可能なのです。ですから医療従事者には、専門課程の間に、患者に傾聴するすべと、患者とのかかわり方を身に着けることを期待しています。
第30回「世界病者の日」の教皇様のメッセージより
謁見中、教皇は聖ヨセフをめぐるカテケーシスで、「優しさにおける父、聖ヨセフ」をテーマに講話された。
福音書は、ヨセフが父親としてどのようにイエスに接したのかを具体的に記していない。しかし、ヨセフが「正しい人」であったことは確かであり、そこからイエスに対する教育を想像することはできる。
ヨセフはイエスが「知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛され」(ルカ2,52)成長していく姿を見ていた。主がイスラエルに対しそうしたように、ヨセフは父としてイエスに「腕を支えて歩くことを教え」、頬ずりするために抱き上げ、「身をかがめて食べさせた」(参照 ホセア11,3-4)。
福音書が示すように、イエスは神とその愛について話す時、常に「父」という言葉を用いている。また、イエスの説教の多くのたとえでは、「父」が中心的役割を担っている。その中で最も知られるのは、ルカ福音書の「放蕩息子」のたとえ(参照 ルカ15,11-32)に登場する父親であろう。このたとえでイエスはこう語る。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、哀れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15,20)。放蕩息子は父から罰せられると思っていたにも関わらず、父の抱擁を再び見出した。
神の優しさは、この世の論理より偉大なものである。それは思いがけない形の裁きである。神はわたしたちの罪や過ちや堕落に驚かれないが、わたしたちが神ご自身の愛に心を閉ざすこと、わたしたちの信仰の欠如に驚かれる。神の愛の体験の中には、偉大なる優しさの体験がある。それを最初にイエスに教えたのは、まさにヨセフであった。
優しさとは、感情的な問題ではない。それは、自分のありのままの惨めさのうちに、愛され、受け入れられ、神の愛を通して変容されたと感じる体験である。
聖ヨセフの父性の中にわたしたちを映し出しながら、主の優しさと愛を受け入れることで、自分も同じように人を愛せる者に変容させられたかを自問してみよう。
ヴァチカンニュースより