2022年4月17日日曜日

4月の軽井沢

ご復活おめでとうございます

4月の軽井沢は、いのちが萌えだす季節です。



山と丘よ、主を賛美せよ。
地に生えるすべてのものよ、主を賛美せよ。

ダニエル3


















2022年3月26日土曜日

シスターの喜びをふりかえる話し①

 



  あなたの人生で大きな喜びとなった二つの出来事は何ですか





       










2022年3月20日日曜日

私が住む町

私が住む町


 





私が住む大泉修道院は、群馬県の大泉町にあります。人口は四万人で東京へは車で二時間ぐらいで行けます。町には四十六か国の外国人が住んでおり、町の住民の二割を占めております。この度のロシア軍の侵攻でウクライナを脱出した難民について、前向きに受け入れたいと支援を表明しました。住居や食べ物を提供し子供は日本語学校に編入させ五世帯から十世帯を受けれ、政府と連絡を取って希望者を募っています。こちらには外国人のス
--やレストランがあります。ブラジル通りという商店街もあります。


 
私どもの修道院は、幼稚園を運営しております。こちらにも約二割の外国人の子供がおります。両親は、日本語がおぼつかなくても子供は教室の中で不自由なくコミュニケイションが出来ております。顔は外国人の顔で、餅つきの時は杵をもって、また“ひな祭り”の歌を元気よく歌っているのを聞いて感動します。この子たちは二つの文化の中で幸せに生きていってほしいと心から祈っております。私たちはお互いの違いを認めながら、なおかつ共に生きる道を探っています。





 今はコロナ禍で教会でも人数制限がありますが、まだコロナが始まっていないころのこと、教会に庭で一人のおばさんが転びました。その時、スマホをしていた外国人の青年たち二人がその音と共にさっと立ち上がりすぐにおばさんの元に駆け付けました。それを見て私は慰めと励ましを受けました。

日本で生まれた子供は日本の習慣の中で成長しますのでご両親との関係の中でギャップも出てきます。私たちは微力ながら耳を傾け良い方法を探しています。宣教者として、悲しみや喜びを共にする道を神様は下さっています。ささやかではありますが、大泉という町の中にある修道院として、人々の中の灯台となりたいと願っています。


2022年2月19日土曜日

冬の軽井沢修道院

 冬の軽井沢修道院







































霜と寒さも神をたたえよ。

氷と雪は神を賛美し、

夜も昼も神をたたえよ。




2022年2月11日金曜日

世界病者の日


世界病者の日

ルルドのマリア様
ルルドのマリア様



「あなたがたの父があわれみ深いように、

あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ636

愛の道にあって、苦しむ人の傍らにいる。 

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 30年前、聖ヨハネ・パウロ二世教皇が世界病者の日を制定したのは、神の民、カトリック医療施設、そして市民社会が、病者と彼らのケアにあたる人々の支援の必要性への認識を高めるためでした。

30回世界病者の日——―その締めくくりの祭儀は、パンデミックのためにペルーのアレキパではなくバチカンのサンピエトロ大聖堂で行われます―——を通して、病者とその家族への奉仕と寄り添いを深めることができますように。

1.御父のようにあわれみ深く

  今回の第30回のテーマとして選ばれた「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ636)は、まずわたしたちの視線を「あわれみ豊かな」(エフェソ24)神に向けさせます。いつだって子らを、たとえ子どもたちが背を向けようとも、父の愛で見守ってくださる神です。まさに、あわれみとは神の別名であり、それは偶発的に生じる感情としてではなく、神のすべてのわざの中に存在する力として、神の本質を表しています。それは強さであり、同時に優しさでもあります。だからわたしたちは、神のあわれみには父性と母性(イザヤ4915参照)の二つの側面が内包されているのだと、驚きと感謝をもって断言できるのです。神は、父の強さと母の優しさをもってわたしたちの面倒を見ておられ、聖霊によって新しいいのちを与えようと、たえず強く願っておられるからです。

 

2.御父のあわれみであるイエス

  病者に注ぐ御父のあわれみ深い愛をあかしする最高のかたは、神のひとり子です。福音書は実に多くの箇所で、さまざまな病気を患う人とのイエスの出会いを伝えています。イエスは「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、み国の福音をのべ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ423)のです。次のような問いがわきます。使徒は福音の告知と病者のいやしのために師から遣わされた者ですが(ルカ92参照)、なぜイエスは、使徒の宣教において第一の任務とするほどに病者に対するケアを特別視していたのでしょうか。

  20世紀の一人の思想家が、一つの理由を示唆しています。「痛みはまったき孤立をもたらし、まさにこのまったき孤立から、他への訴え、他への嘆願が生まれる」2。病によって肉体のもろさや苦しみを味わうと、心も沈み、不安がつのり、次々と疑問がわいてきます。起きること一つ一つの意味を問い、すぐに答えを得ようとします。これについては、今回のパンデミックにおいて、集中治療室で孤独に末期を迎えた多くの患者を思い出さずにはいられません。もちろん、献身的な医療従事者たちのケアを受けてはいましたが、最愛の家族や、現世での生活でいちばん大切だった人たちとは離されたままでした。だからこそ、御父のあわれみであるイエスの模範に倣って、病者の傷になぐさめの油と希望のぶどう酒を注ぐ、神の愛のあかし人3の存在が重要なのです。

 3.キリストの痛みを負うからだに触れる

  御父のようにあわれみ深い者となりなさいというイエスの呼びかけは、医療従事者にとって特別な意味があります。わたしが考えているのは、医師、看護師、検査技師、病者の介助や介護のスタッフ、そして苦しむ人のために貴重な時間を割いてくれる多くのボランティアのことです。親愛なる医療従事者の皆さん。愛と技能をもって病者の傍らで務めておられる皆さんの奉仕は、職業という枠を超え、使命となるのです。キリストの痛みを負ったからだに触れる皆さんの手は、御父のあわれみ深いみ手のしるしとなるはずです。皆さんの職業の特別な尊さと、そしてそれに伴う責任とを、どうか心に留めておいてください。

  医学の、とくに近年の進歩の恵みを、主に感謝しましょう。新たな技術によって数々の治療法が開発され、患者に大きな利益をもたらしています。古いものから新しいものまで、さまざまな病気の撲滅に貴重な貢献をなすべく、研究が続けられています。リハビリ医療は、その知見と技能を著しく発展させてきました。だからといって忘れてはならないのは、患者それぞれが、その尊厳と弱さを含めて唯一無二の存在であることです4。患者はつねにその人の病気よりも大切で、だからこそ、どのような治療法も、患者の話に、これまでのこと、懸念、不安に、耳を傾けないままなされてはなりません。回復の見込みがない場合でも、ケアはつねに可能であり、なぐさめを与えることはつねに可能であり、病状にではなくその人に関心を示しているという寄り添いを感じてもらうことはつねに可能なのです。ですから医療従事者には、専門課程の間に、患者に傾聴するすべと、患者とのかかわり方を身に着けることを期待しています。


第30回「世界病者の日」の教皇様のメッセージより




2022年1月21日金曜日

教皇様のカテケーシス

  謁見中、教皇は聖ヨセフをめぐるカテケーシスで、「優しさにおける父、聖ヨセフ」をテーマに講話された。


今日は、「優しさにおける父」としての聖ヨセフについて考察を深めたい。

   福音書は、ヨセフが父親としてどのようにイエスに接したのかを具体的に記していない。しかし、ヨセフが「正しい人」であったことは確かであり、そこからイエスに対する教育を想像することはできる。

 ヨセフはイエスが「知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛され」(ルカ2,52)成長していく姿を見ていた。主がイスラエルに対しそうしたように、ヨセフは父としてイエスに「腕を支えて歩くことを教え」、頬ずりするために抱き上げ、「身をかがめて食べさせた」(参照 ホセア11,3-4)。

 福音書が示すように、イエスは神とその愛について話す時、常に「父」という言葉を用いている。また、イエスの説教の多くのたとえでは、「父」が中心的役割を担っている。その中で最も知られるのは、ルカ福音書の「放蕩息子」のたとえ(参照 ルカ15,11-32)に登場する父親であろう。このたとえでイエスはこう語る。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、哀れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15,20)。放蕩息子は父から罰せられると思っていたにも関わらず、父の抱擁を再び見出した。

 神の優しさは、この世の論理より偉大なものである。それは思いがけない形の裁きである。神はわたしたちの罪や過ちや堕落に驚かれないが、わたしたちが神ご自身の愛に心を閉ざすこと、わたしたちの信仰の欠如に驚かれる。神の愛の体験の中には、偉大なる優しさの体験がある。それを最初にイエスに教えたのは、まさにヨセフであった。

 優しさとは、感情的な問題ではない。それは、自分のありのままの惨めさのうちに、愛され、受け入れられ、神の愛を通して変容されたと感じる体験である。神はわたしたちにそれぞれの能力を託されただけでなく、贖われた弱さをも託された。神の優しさは、自分の脆さに触れることを助けてくれる。そのためにも、特にゆるしの秘跡を通し、真理と優しさを体験しつつ、神のいつくしみと出会うことが大切である。神から来る真理は、わたしたちを罪に定めるものではなく、わたしたちを受け入れ、抱擁し、支え、ゆるすものであることを忘れてはならない。

 聖ヨセフの父性の中にわたしたちを映し出しながら、主の優しさと愛を受け入れることで、自分も同じように人を愛せる者に変容させられたかを自問してみよう。

 

                                                     ヴァチカンニュースより