2023年10月23日月曜日

そしてあなたは宣教の熱意によって、すでに変容させらていますか。。。

 「燃える心、踏み出す足」(ルカ24・13−35参照)


2.パンが裂かれると、目が「開け、イエスだと分かった」――聖体におられるイエスは、宣教活動の頂点であり源泉

 神のことばで心が燃えていたので、エマオの弟子たちは謎に包まれた旅の人に、夕食をともにしてほしいと頼みます。そして食卓を囲み、そのかたがパンを裂かれると、彼らの目は開きイエスだと分かるのです。弟子たちの目を開く決定的なものは、イエスによる一連の動き、すなわち、パンを取り、賛美の祈りを唱え、裂いて渡すことです。これらはユダヤ人の家長がふつうに行うことですが、聖霊の恵みをもってイエス・キリストが行うことで、それらは二人の会食者にとって、パンの増加の奇跡のしるしに、そして何よりも、十字架のあがないの秘跡であるエウカリスチアのしるしに書き換えられるのです。ところがパンを裂いておられるのがイエスだと分かった瞬間に、「その姿は見えなくなった」(ルカ24・31)のです。この事実から、信仰の本質的な現実が分かります。パンを裂くキリストは、今やご自分が裂かれたパンとなり、弟子たちに配られ、そうして彼らの血肉となるのです。目には見えなくなってしまうのは、キリストは今や弟子たちの心の内に入り、彼らをさらに燃え立たせておられるからです! そしてすぐさま道を引き返すよう駆り立て、復活したかたとの出会いというかけがえのない経験を、すべての人に伝えるよう促すのです。このように、復活したキリストはパンを裂くかたであると同時に、わたしたちのために裂かれたパンでもあられます。ですから宣教する弟子一人ひとりに求められているのは、イエスのように、イエスを通して、聖霊の働きによって、パンを裂く者となり、世のために裂かれるパンとなることなのです。

 この点からいえば、キリストの名において物質的なパンを飢えた人々と分け合うということだけで、それはすでにキリスト者の宣教活動なのだということを忘れてはなりません。キリストご自身である聖体のパンを裂くことは、なおのこと宣教の最高の行為です。感謝の祭儀こそ、教会生活と宣教の源泉であり頂点であるからです。

 教皇ベネディクト十六世は次のようにいいます。「(聖体の)秘跡の中で祝う愛を、自分だけのためにとどめておくことができません。この愛は、本来、すべての人に伝えられることを求めます。神の愛、キリストと出会うこと、キリストを信じること――世界はまさにこのことを必要としています。ですから、聖体は教会生活の源泉と頂点であるだけでなく、宣教の源泉と頂点でもあります。『真の意味で聖体に生かされた教会は、宣教する教会です』」(使徒的勧告『愛の秘跡』84)。

 実を結ぶために、わたしたちは主につながっていなければなりません(ヨハネ15・4−9参照)。このつながりは、日々の祈りによって、とくに、聖体によってわたしたちのもとにとどまっておられる主の現存を前に、沈黙をもって、礼拝することで得られるものです。キリストとのこうした交わりを愛をもってはぐくむ宣教する弟子は、行動する霊性の人となるはずです。エマオの二人の熱心な、とくに日が暮れてからの「主よ、一緒にお泊まりください」(ルカ24・29参照)という強い願いにあこがれて、イエスがともにいてくださることを熱望する心を持ち続けられますように。


(2023年「世界宣教の日」教皇メッセージ)



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